「この人、こどもだから。」

新しい学校で2年生をスタートしたたおくんと、はじめて他の子と歩いて行く初日だった。

小さな学校なので、人数が少ないのもあって、歩いて30分くらいかかるのに初日だけわざわざ集合場所など確認するために、先生が1人来ていてくれていた。

学校の準備や、朝時間に間に合わせることなどが本当に難しくてできないわたしにとって、この1年たくさんの人の力を借りてきてここまでやってきたけど、適切なサポートが無いとき、ギリギリの不安状態でやることになる。

子供の頃、親が声かけして急かして時間に間に合わせる時期が終わったあと、高校に入学したわたしは毎日遅刻した。入学して1ヶ月もたたないうちに先生に呼び出され、反省文を書かされ、担任のひょろ長い男の先生が、「なんでだ、どうしたんだ」と文字通り本当に泣いていたのを思い出す。

時間の感覚が、普通のひとと違うのだと思う。

 

自分のことはとにかく間に合わなかろうが、パニックになろうがしょうがないけど、今回は大事な息子のたおくんのことだった。

ひとつひとつ、どうしたいか訊きながら確認して決めた。

タオくんは、わたしとは違う人間で、ひとりの個体として権利がある。

 

保育園のときみたいに、ゆるく自由にいつでも遅刻していくようにするのか?

それとも人からの助けをまた探して、間に合うようにきちんとやる訓練をするか。

 

たおくんは、大抵の時、後者を選ぶ。そしてきちんとやり遂げる力があると思う。

 

2人だけでの準備をして、なんとか初日出発できたものの、みんなに伝えておかなければと私は必死になった。

助けが無かったとき、繰り返し出がけにパニックになりながら2人で苦しんで泣いて失敗し続けた記憶。何かほんの些細な歯車がずれたら、あっという間に総崩れになることもきっとあると怖かった。

基本的に困ったり、パニックになってる時には、外部に連絡ができない。キャパオーバーで、アウトプットができないのだ。

そのことを理解してコミュニケーションをとってくれる人はごく稀にしかいない。

 

3人の女の子と、そこにいた先生に、もしかしてこの先時間通りに来るのを失敗することがあるかもしれない、その時に様子を見に来てほしい

ということを必死で伝えようとした。

 

●遅れる連絡をしたくてもできないかもしれないこと

●そういうときに助けてほしいこと

 

上のふたつをしどろもどろで話そうとしたときに、1人の女の子が遮るようにしてあさってを向き

「えーでもルールだもんね。時間に来なかったら置いてくって」と冷たく呟いた。

 

わかってる。

そんなことわかってるよ。みんなが規定のルールに沿ってやれる中で、それができないから常に困ってるし、助けが必要なんだよ。

心のうちで叫んだ。

 

日本の、世間からそういう「ルールだから」という一切とりあってもらえない状況は、そうか、こんな小学生の女の子でさえも、もうその感覚に染まってるんだと悲しくなった。

 

わたしは、ヒステリーを起こさずに、言えることだけ言おうとした。

「わかってる。時間が来たら置いてくっていうルールはわかってるの。でもタオくんとわたしは2人だけで住んでて、ママに少し障害があって、うまくできないことがあって。そのときに、上手に連絡ができないから、一回だけ確認しにきてもらえるだけで、それだけでいいんだ」

 

先生は、冷たくあしらった女の子やわたしの気持ちをきちんと汲み取っていて、フォローしようとしてくれていた。聞こうとして途中で流れた会話を、取り戻してくれた。

それだけで、きちんと理解してくれてることが見てとれた。

 

そして、”障害”という言葉だったのか、”たおくんと2人”という言葉にひっかかったのかわからなかったが、わたしの説明の途中で、その女の子の温度が変わった時があった。

それまでは目も合わせずに面倒くさそうにあしらっていたのが、わたしの顔をみて、

「そっか、わかったよ」

と無言でうなづくのだ。

 

必死なわたしの横で、これまで一度も説明などしたことがないたおくんが、

 

「この人、こどもだから。」

とさらっとそう言って、その場の空気が変わったのがわかった。

 

そこにいたみんなが、(なんとなく理解した)瞬間だった。

 

 

世間から”子供扱い”されるのには2種類ある。

発達障害があるとわかった時点で、ひとりの人間として認めない人たちだ。

 

子供として、(障害者として)意見や存在、考えを軽視し無視する人たち。

表面的な受け答えはしているので、本人たちは軽視し無視していることに気づいてない。

「ちゃんと聞いてますよ!」と必ずそういう人たちは言い、大切な中身はまったく伝わらない。

 

一方、子供として、尊重し、正当な扱い(助けたり、方法を考えたり)する人たちが時々いる。

発達障害があるとわかった時点で、ほんのすこし通常のルールとは違うやりかたが必要だと判断したり、ある意味での別の話し方をきちんとしてくれる人たち。

 

後者は、わたしたちにとって本当の救いであり、心の底から「子供として扱ってくれてありがとう」とそう思う。

こどもに言い聞かせるように繰り返し説明してくれたり、紙に書いてあることを読んでくれたり、メモをしてくれたり、工夫してくれたりする時

本当の安心感に包まれて、無理をしなくてよくなる。

 

 

 

たおくんの「この人、こどもだから。」が、わたしの頭のてっぺんから爪先までを包んで反芻した。

それは、冗談で貶したり恥ずかしがったり、奢ったりからかったりするのとは全く違う、その場にふさわしい、最も適切で無駄のない、説明だったと思う。

そして、心底”ひとりの人として、尊重する”ための言葉だった。

 

「そうなの、タオくんのママ外見は大人だけど、中身が子どもだから」

と言いかけたとき、さっき冷たくあしらった女の子は

しっかりと私の方をみて綻(ほころ)んでいた。

 

おうちで2人コナンを見るたびに

「みためは大人!頭脳はこども!名探偵ママ!」と踊っていたのを思い出して、みんなに手をふって家に戻る間、胸がいっぱいで泣けた。

 

人権って、なんだろう。

こどもや、障害のあるひとには、みんなと同じ正当な理由が必要なの?できないのに?

例外を認めるって、見下すことじゃない。特別扱いでもない。みんなを平等にするための、知恵なんだよ。

 

そして、本当に誰かに、きちんと尊重してもらえたときの

安心や、自分が存在していると感じられる尊さが

身体いっぱいに広がっていった。

 

こどもは、子供扱いしてほしいと思っていないんだよね。

子供として、尊重してほしいと思っている。

 

わたしが、みんな同年代くらいだと思ってたのに、ある日突然みんなのほうがお兄ちゃんお姉ちゃんになり始めて戸惑ったのは、彼らが年長さん(5歳、6歳)になった時だったんだけど、

すこしづつ、成長したこどもたちが、私が(年下の子)という認識で助けようとしてくれてるのを感じるようになった。

 

尊重とは、見守ることだけではなくて、必要なサポートを見極めて手を差し伸べること。

そして理解は、こんなにも全てを解放して愛で包んでゆく。

 

一生懸命伝えても伝えても伝わらないことがある中で

橋がかかった時の今日みたいな時間が、これまでの全てを帳消しにしてくれる。

みんなに、大切なことをわかってほしいという長年の想いは、きっとこの先も少しづつ少しづつ、伝わってゆくと思う。

 

 

 

 

 

 

 

来週から給食😃

今朝さいごのチキンナゲット弁当🙌

 

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