いのちを操作するということ

コントロバーシャルな問題のなかでも、そうした「いのち」にまつわるテーマは色々ある。

コロナにかかって素直に死ぬのが、自然に即したあり方?それならワクチンは打たないよね。でもそれだけが正解かっていうとそんなワケはない。

ウイルスに感染して死ぬしかなかったずっと昔の時代に対して、今は、山ほどの奇跡みたいな治療法やら薬があり、ワクチンもそのうちのひとつ。

その恩恵を受けていくことや、私たちが1000年前ではなく「今、この時代に生きている」ということと調和していくことも鍵になると思う。

 

例えばだけど、自分は絶対に自然な方法で生きるんだ!と固執して、医療を拒否して結核にかかって今死んだら、それは

いのちに即して生きるのではなく、むしろ「与えられたいのちを冒涜すること」だよね。勘違いっていうか。

これは、どういのちをいただくかという話にも繋がってくるのだけど、いのちを大事にする=動物を食べちゃいけないという直結しているものではない。

いのちを大事にするからこそ、ありがたくチキンを食べる選択が生まれてくるし、

いのちを大事にするからこそ、ワクチンを打つ選択があり、それと同時に、わたしが「注射は打たない」選択して、ワクチンを打たないことが「いのちを大事にしていない」わけでもない。

 

ただ自分の置かれている立場だとか、今の時代、そしてその選択が、欲や不安から来るものなのか、または自分が心から享受すべきだと思うものなのか。自分のためか、誰かのためか。

そういう、どこから原動力がきているかにもよって全然違ってくる。

 

生や死についての操作は、とても大きな視点から見るとすごく人間的だ。

たいていのことはエゴで成り立っているし、かといえ守られるべきものも絶対にある。

 

よく思うのは、津波や地球の環境破壊において悲しい出来事で大勢のいのちが失われることは、人として3次元で生きる限り、真剣に堰き止めたい現実であって、悲しいことだけど、

おっきく見れば、ああ、神様はちょと人間を減らしたかったんだよなあ。わかる、密集しすぎてるもんな。😂ということ。

戦争なんかの愚かな人間の行動に対して、大切なことに気づかなくてはいけないというメッセージはあちらこちらに起こるしね。

 

この前息子に、「ママ、どうしてコロナになっちゃったの?」と訊かれて、

こんな風に答えたわたし。

 

「んとね、人はさ、いじわるをしたり、自分のことばかりを考えたり、みんなで仲良く過ごす大事なことよりも、大事じゃ無いことを大事にする人がいっぱいいるでしょ。

だから、かみさまが、世界中に、”ちゃんと、いじわるじゃなくてやさしくなりなさい”

とか、”あれもこれもほしいと思うんじゃなくて、たくさんすてきなものを持ってることに気づきなさい”ってそう言ってるの。」

 

そのあとで、

「だから、ママやたおくんは、ちゃんと一生懸命自分や世界が幸せになることを考えてるから、コロナでもだいじょうぶだと思うよ」

と言ったら、息子は嬉しそうだった。

 

 

言っとくけどそれは、自分たちに関係ないって意味じゃない。

世界中がその旋風に振り回されている以上、つねに自分たちはその一部だから。

 

でも、世界は広い。人間は小さい。地球は地球のベストを尽くしていて、宇宙における地球はとても小さくて、宇宙は完全な調和が保たれているのは確かだ。

 

それを思うと、ワクチンを打つか否かというハナシ自体、とてもちっぽけになってくるけそ、

打って死ぬか、打たずして死ぬか、

死は結局のところあと40年だか50年もすれば大抵の人(んー、わたしのこれを読んでる人が何歳かわかんないけど😅)に死は訪れる。

 

そういうこと。

 

いのち。それは、操作しながら、素敵なミラクルを起こしながら、結局操作などできない次元に属しているとそう思うから。

 

いのちの操作は、ある地点を越えれば、ただの人間の欲や間違った傷を残すだけの危険な結果になりかねない。

ワクチンもまた、血眼になって情報を集めて、打つべきか、打たざるべきかと悩むよりも、自分たちが、身体を大事にするイコール、どんなふうかな。

そうやって感じてみればおのずと答えは見えてくるかも。

 

 

 

 

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