年の暮れ 2020 食べることのつれづれ

 

年の暮れ。

いまいちど、食べることが自分にとってどんな意味を持っているのか?

わたしは食べることを通して、何がしたかったのか?

そんな気づきが津波のように押し寄せて、溢れている日々。

 

自分が本当にやりたかったことが、「食」にまつわるエトセトラならば

なぜ、自分はこうも遠回りして、そして「食」から一切離れた場所にいるんだろう?

それが解せなくて息の詰まるような長い時間に、小さな陽が差し込み始めた感じがする。

 

同じく「食べること」の大切さを知っているともだちを前に、回らない頭をフル回転させて、日本のベジタリアニズムの現状を切々を話す感覚は、折り紙でツルを折ったものを全部開いて、また違う折り目をつけてツルを折って、また全部開いて、もう紙がくしゃくしゃになるまで折り目がついてるのに、それでも同じ紙でツルを折るくらいに

不毛でもどかしい感じがした。

 

それでも、ひとつだけわかったことは、わたしは遠回りをしていたんじゃないということだった。

日本で最近ちらほらみかける「プラントベース」という言葉や、あの手この手を使い、ベジタリアニズムを浸透させようという動きのこと。

菜食主義だろうがマクロビオティックだろうがヴィーガンだろうが、どんな新しい言い方で攻めても、まったく根付く気がしないそのこころもとない感覚

見るからに不味そうな唐揚げ風のからあげに、口に入れて更にがっかりしかない不味いごはん

「これじゃ、育たないんだよ」

「これじゃ、どれだけがんばっても結局芽が出ないんだよ」

 

料理のことだけじゃない、それを作る過程、サスティナブルかどうか、受け入れ続ける社会の認識、人権を無視しつづけてもそれに気づけない組織のありかた、

どれをとっても、なんどそう思ったかわからない。

 

それは、日本の食の土壌がまだ、十分に正しい「食のありかた」を受け入れる準備が整っていないからなのだ。

 

それはとてつもなく果てしない道のりにしか思えなかった。

たとえNYという人種のるつぼで、世界中の菜食主義者が食べるカラフルで無限の喜びに満ちたベジタリアン料理のバリエーションに触れ続けてきた自分にとっても

日本で、それが本当の意味で浸透するのはまだまだ、まだまだずっと未来なような気がした。

 

自分の生まれ育った国で、「食べること」を本当に理解した上で

「いのち」を本当に理解した上で

「愛すること」がどういうことかを本当に理解した上で

菜食主義を広げようとするならば

 

多分、今の自分のように、土壌をとにかく、先になんとか耕すことしかないんじゃないかとそう思ったのだ。

 

種を植えたり、実をつけるためにせっせと植物を育てることは

何度実験することも、大事だと思うし

その度にたくさんの発見があるだろうと思うから、ひきつづきそういうお店は増えてほしいと思う。

環境問題がきっかけであろうと、動物愛護がきっかけであろうと、それはどこからでもよい。

 

でも、残念ながら土壌ができていない場所に、何度繰り返しそれを植えようとしても、一時の流行で終わる。根付かないんだ。

 

自分が生きている人生の、残りすくない時間のなかで

耕せるだけ耕して、未来につなげていきたい。

 

ベジタリアンが良い生き方なんだ、と思っているひとたちが、それがすべてではないのだと気づくこと、食べることは生きることであり、それが世界を分断させる原因にならないことも。

こどもたちの小さな未来に、本来の自由がとりもどされた世界をプレゼントしたい。

 

 

 

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。