Père Noël ⑥

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いただいた手書きのカードは、いつもどんなときも、わたしのたからもの。

ファイルに大事にしまってある。

 


 

 

“許せない” の根底には、

どちらかというと、自らの罪悪感が潜んでいる場合が多い。

 

つまり、“許せない人” というのは、

自分が “許しを請いたい人” である場合がほとんどである、ということだ。

わたしの場合も、紛れもなくそうであった。

 

そもそも、サービスを提供してお金を払っていただくのは、ある意味当たり前のことなのだが、

支払いが滞る時、相手の問題一辺倒で済んでいないのは、薄々感じていた。

相手のせいにするのは簡単である。

支払って当然なのだから、と開き直るのも簡単である。

 

でも、基本的に人間というのは、

感謝をしていれば、“忘れる” ということはありえないのである。

自分に抜け落ちている部分や、コントロールが入れば入るほど、

相手は何かをしたくはなくなる。

 

幸い、今までセッション代を踏み倒されたことはないが、

度々苦しくなるのは、どうにかしたかった。

わざわざ自分がそこで苦しくなるのなら、いっそのこと、

代金自体を手放したほうがよっぽど楽なのである。

数万円を、別のきちんと支払ってくれる方から新たに受け取るほうが

自分にとってたやすいのは、よく分かっていた。

 

でも「払わなくていいですよ」というわけにもいかない。

 

それはそれで自分がそう決めたならいいのかもしれないが、

「お金」テーマでこじれている人こそ、そこに向き合ってほしいのもあるため、

軽々しく踏み倒させては、相手のためにもならないのである。

 

そして、支払いの遅いクライアントさんに対する自分の感覚が、

当時、養育費をどうしても受け取りたかったその時の感覚に非常によく似ていたというか、

それはまったく同じ根っこから来ているのが、

名前を並べてみてようやく分かった。

 

そして好きな人のために買い物をして受けとったお金も、迎えに行ったときのお金も、

相手がどう感じているのかは定かではなかったが、わたしの中では全て、

同じ種類の感覚であった。

 

自分が「受け取れるはずだ」「支払ってもらって当然だ」と感じれば感じるほど、

わたしは窮地に追い込まれた。

苦しさは募り、正しさが手放せていないのが分かった。

 

 

やり方は定かではなかったので、まず名前の下に

“彼らにひとつずつ、謝っていく”

“自分にできることをする”

“愛を与えることを、する”

と書いて、昼食の店を後にした。

千円のランチ代を払うことすらあれほど辛かったのは、久々であった。

 

 

その後気晴らしに、いつものように洋服屋に入った。

カートに山盛りに乗せられた荷物を見た店の人に、

“うわあ!今日はお買い物デーですね!” と感激された。

 

“はい・・・・もう、吐きそうです” とそのまま文字通り、わたしはうなだれた。

 

前日に買った、あったかくて伸びるズボンを履いて、

ブラジャーもつけずにすっぴんでウロウロしていたわたしは、

ほぼ洋服店に入る身として失格だったが、

店員さんは暖かく迎え入れてくれた。

ブラジャーもしないまま、あったかくて伸びるズボンに合う上の服を何着も試着した。

 

あったくて伸びるズボンは、あったかくて伸びるくせに、足が綺麗に見えて、

わたしは鏡の前で満足し、いくつか洋服を買って、

店を後にした。

クリスマスの飾りを買ったときよりも金額的には高かったが、

あれほどゲロゲロはしなかった。

 

 

その後、帰り道にあるトイザらスに車を止めた。

雨が降ったり止んだりする中、警備員に案内されて止められた駐車場は、

平日なのに満車のトイザらスの、端っこであった。

 

わたしは車から流れる、Michael John Hallのクリスマスソングの元で、

うずくまって号泣した。

激しくとめどなく溢れ出るものの下には、

“たおくんのおとうさんを赦す”

があった。

連ねた名前の人たちに、ひとりひとり、謝り倒していった。

 

すでに “赦し” はいろんなレベルで始まっていることを、わたしは知った。

 

大きな沿線沿いのおもちゃ屋の駐車場で、

ひとしきり感情開放は執り行われた。

両脇に止まっていた車は、顔を上げた時にはいなくなっていた。

 

エンジンをかけたまま、どのくらい時間が過ぎたのか、見当もつかなかったが、

泣き腫らした顔で外に出て、走っておもちゃ屋に駆け込んだ。

一年前とはまるで、状況も気持ちも違っているのが分かった。

 

雨は止んでいた。

 

 

幸せそうな家族と、仕事帰りの若い父親、外国人のお母さんで埋め尽くされて、店内は

陽気で奇妙なエネルギーに満ちていた。

メモを片手に、携帯の画面を片手に、棚とにらめっこしているおとうさんの姿が、

わたしをどこまでも幸せにした。

 

家族とか、“父親” に対する憧れは、昔はヒリヒリ傷が痛む見たくない光景だったが、

いまは違った。

わたしが経験したことのない「家族」や「おとうさん」の存在は、

なんだかドリームワンダーランドのような心地で、

男親がどんなふうに子供を愛するのだろうと想像するだけで、

ワクワク胸がいっぱいになった。

 

自分にもいつかそういうものを感じられる時がくるのを、

わたしは知っている。

そして自分が、深く父から愛されてきたことを十分すぎるくらいに知っているわたしは、

生まれた時からずっと変わらずに、

幸せである。

 

 

店内を一周して、

ミッキーの歌を楽しそうに歌う息子のために、ミッキーのレゴの箱と、

毎日嬉しそうに乗り物の話をしている息子のために、大きなブルドーザーを選んだ。

リモコンで動く、いちばんかっこいいやつを選んだ。

 

動物の名前を嬉しそうに話す息子のために、

トーマスの動物園貨車セットの箱も腕に抱えて、レジへ向かった。

 

お金を使うことは怖いどころか、

店中のおもちゃを端から端まで買い占めたい気分であった。

 

わたしにとって、それは安すぎる、

あまりに安すぎる買い物であった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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