苦しむか否か

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「苦しさ」をなんとか取り除きたくて

みんなあれやこれや情報に翻弄される。

 

そもそも「幸せ」な人間の世界に

セラピストととか「癒し」とかいう概念は必要ない。

 

だからわたしの元に辿りつくひとは必ず、

「何か」に気づきたくて

「何か」を変えたくて

「何か」を知りたくて

「何か」を取り除きたくて

 

色々だけれども

その「何か」は苦しみを伴うことがおおい。

 

「苦しさ」自体は悪ではないが、

それに振り回されない自分を築いていくことは
本来の自分に還るプロセスにおいてもとても大切。

 

 

「苦しい」ひとは「苦しみたい」と望んでいるのだ、

というのはまぎれもない定説だが、

「苦しみます」なら結構いい線いってる松永まいが

その後の変化を観察している中で

 

「苦しみ」についても新しい目線で
いくつか捉えられるようになってきた。

 

果たして本当にわたしは「苦しみたかった」のか。

 

答えとしては、実は微妙なところだ。

 

なぜなら、最初に書いたとおり、

 

「苦しみ」を「悪」でなはいと捉えられ、
「苦しみ」を「わたしは苦しみたいのだ」と

自ら望んでDive する時は

 

「苦しみ」はすでに「苦しさ」をともなわない。

 

つまりもっと平たいところだけに目を向ければ、

 

「苦しさ」のなかでもがいている以上、

「苦しい」以上、「苦しみたくはない」のだ。

 

 

 

ちなみに私の「苦しみ」は
大好きだった恋人が突然わたしの元を去って、
もっとも根深かった「感情」をむごたらしく
味わい尽くすことを選択した時にクライマックスを迎えた。

 

罪人が腹を切り裂かれ内臓を引きずり出されるように
それは執り行われた。

 

感情を感じ切って抜けたあとのことを、

わたしはいつも

「喉元過ぎれば熱さ忘れる」と言っていたが、

 

一度抜けた感情は
どう再現しようと思い出そうとしても、

ある種のちょっとした懐かしさ以外に
出てくるものはなくなる。

 

自分がその時に感じていたことは、

どれも全て、愛おしい。

 

ひとつひとつのカラフルな宝石が

美しい引き出しに大切にしまわれているようだ。

 

 

そういう意味では、

私は「苦しむ」ことをいつも選択した。

 

宝石のコレクションを増やすためであり、

「苦しみたい」からではなかったと

 

その後やはり、そう思う。

 

 

 

私に限っていえば、

「苦しむ」ことが

「感じ切る」ことが

 

「気づき」への「癒し」への

もっとも近道だと思っていた所以。

 

 

算数、数学で問題を解くことが
好きだった子供のころを思い出す。

ただただ一定のルールに沿って忠実に計算を重ねると、
そして最後に導き出せる「答え」。

それは私に絶対の安心感を与えてくれた。

 

 

 

山場を迎えていた頃に話をしたクライアントさんから

「まいさんは”気づきたい”んですね」と言われる。

 

そうだろう。

わたしは苦しみたかったのではない。

気づきたかったのだ。

 

それはとても純粋な探究心からであり、
そしてまた純粋な好奇心である。

難しい理由はない。

小さな子供が
コンセントを挿しては抜いて、挿しては抜くのと
さほど変わらない。

 

送られてきたコメント

  • まいさんは,自分が決めたことにとても忠実な人だと思う.
  • 目を伏せてお話される姿が美しい. 
  • ただ感情を感じ切るだけじゃなく,
    苦しみから気づきを得るべく,苦しみ抜いている感じだった.
     
  • 私が得た印象は,「書きたい・表現したい」以上に
    「気づきたい」がまず先に,上位にあるようだ,ということ.
     
  • 私が彼女へのメッセージに「求道者」という語を用いたのも,
    このことにリンクしていたのだろう,とこの日に思う.
     
  • 宗教に結びつくような,すでに(ある程度)存在している道を修める「修道士/女」ではなくて,自分の歩くべき道を求めている感じ. 
  • 仏教の用語「求道(くどう)」になると,
    悟りを求めるという意味で用いられる.
     
  • 悟り(awaken)って,たぶん,まいさんの求めている
    「気づき」に割と近いのじゃないかと思うのです.
    「目覚める」とも言う.

 

 

 

おそらく「悟り」や「目覚めたい」は、

人間というかは魂の本能だ。

 

 

わたしは自分が歩んできて

確かに「知っている」ことだけを伝える。

 

学んで知識として「頭に入っている」ことを
伝えるときもあるが、

そういう時は

「私も今は同じことに取り組んでいますよ」と言う。

 

 

そして、

 

「苦しい」ひとに、

 

「苦しむ必要はない」と言う。

 

そこで得てほしいのは、

「苦しみ」が全てではないという

わたしの中に新しく芽生えた「知っていること」のひとつと、

[secure]な感覚だ。

 

セキュアを、わたしはこれから

本当に大切にしていく。

 

 

セキュアな器の元で、

ひとは「守られている」と思えて初めて

 

「苦しむ」ことができる。

 

 

 

そして「欲しいもの」を手にするために、

やはり「苦しむ」必要があるとき

 

 

残念ながら私は、

「そこは避けては通れないのです」

 

と確言させていただいている。

 

 

 

 

「苦しむべきか」
「苦しまざるべきか」

 

 

「心地よさ」「安心感」「幸福感」の大切さを初めて知る。

 

わたしはそして、

「苦しむ必要がない場合」の見極めを学ぶ。

 

 

 

「心地よさ」と「幸福感」だけを求めているものには、

 

「苦しみ昇華させる」を追加すると良い。

 

 

 

プロセス・段階によって、

その人にもっとも必要な選択肢は変わる。

 

答えは無いにしても、

効果的・より効率のいいやり方は存在する。

 

 

 

 

 

 

わたしは、

「気づきたい」のだ。

 

 

 

 

 

 

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