誰かを信じて、しっぱいしても

「ママ、昨日はごめんね」

朝いつもより少し遅めの時間で、斜めに一部だけ朝日が差し込む階段を降りてきたタオさんがそう言った。

「ママも、xxの理由で、怒っちゃったからごめんね」

 

わたしたちが喧嘩するとき、いつもそこには小さな理由があって、誰も責めるに値しないごめんねは、その理由を見つけるだけで済む。

 

誰かを信じるきもちは、勇気とか、わたしたちの中から生まれるものなんだなといつもそう思う。

なにかを信じられなくなるときがあってもいい。

でもそれは、相手や何かのせいじゃなくて、ただ、これ以上傷つきたくないから。

ただ、これ以上苦しみたくないから。

ただ、怖いから。

 

 

でもわたしはこれまでずっと人を信じては裏切られ信じては裏切られを繰り返してきて思うけれど、

裏切りって存在しないんだよね。

ひとにはみんな、たくさんの理由があって

そのときどき抱えきれなくなるものが絶対にあるのだと思う。

 

そしてそのときに、とても傷ついて何も信じられなくなったり、誰も信じられなくなったりすることもきっとある。

 

 

そのあとで、もういちどその雨の後に差し込んだ朝陽みたいに緩やかに

 

「あ、信じることと、傷つくことって別の場所にあるかも」

って感じとることができたら

 

またおおらかに、信じてみようかなってそう思える。

 

信じて、やっぱりダメだったときに

自分が傷つく必要はなくて

ただ胸を張って「信じられたな自分☺︎」って思えること

 

自分自身に対しても、愛する誰かに対しても。

 

 

 

 

Have a beautiful day for you .

 

 

手放しで誰かを信じることってきっととても怖いことだとおもう。

でも誰かを信じることと、期待することは別であって、期待さえしなければ、
ただ信じていても悲しい気持ちにはならない。

信じてもらえなくても、悲しい気持ちにならなくていい。

すべてのこころは、自分の中にある。

 

 

 

 

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