コミュニケーション

コミュニケーション

コミュニケーションという言葉が、日本語の別の言葉ではなく

コミュニケーションと呼ばれるくらいに

それは、

もともと

この国にはきっと、存在しているようで、存在していないものだったんだろうと思う日。

長い間、上手にコミュニケーションが取れなかった場所に、橋がかかるとき

意思疎通ができて、相手の言っていることが、わかるとき

ああ、

やっと

コミュニケーションがちゃんと取れた、と思う

 

それは、いつも、もちろん言葉を越えた場所に起こってきた。

 

わたしたちは色々な方法で、コミュニケーションをとって、そして誰かと関わりながら生きていくのだけれど

言葉を頼ったときに起こる、すれ違いの数々や

言葉が通じないときに起こる、誤解の数々

 

同じ言語を話しているようでいて

そこには幾重にも重なった層があり、そのそれぞれの層を超えると

それは違う次元が存在していて、断絶されるように

通じないようになっていて

 

それは、それは、同じこの世界で生きるものたちにとって

悲劇としか言いようがないすれ違いが起こり続けるんだよね

 

 

なんとかして、その層を

グラデーションのように繋げ

なんとかして、それぞれの世界が行き来できますようにと願いはや十数年が過ぎた。

 

その世界は

緻密にできている。

言葉を発することができない人間が持つ、とても規則正しい、美しい規律に乗っ取った

コミュニケーションの取り方があり

それは、「何も言わないからわからない」ものじゃない。

 

そのひとが、ただそこに存在しているだけで、それは発せられてんだよ。

 

フランスで、アルファベットの読み方から、言語を一から習得しようとしたときの、あの初々しく、言語ってこうなってんだ、赤ちゃんって、こんな風に言葉を覚えてくんだ、と毎日目が鱗だったあの日々。

言葉が通じない世界で、いつも、わたしは食べるものや、風土や、そこに生きる彼らの生活を通してコミュニケーションを取ってきた。

そのうち、「エネルギー」という目に見えないものを通して、相手の嘘や相手の本音をそのままキャッチできるようになった。

どれも、これも、すべてが

自分が世界と滑らかにコミュニケーションを取るために身につけた術だった。

 

 

 

 

6年前のある日

くたびれた顔で、英会話を私から習いたいとやってきた生徒がいた。

2回目の結婚に失敗して、奥さんと別居中で、英語よりも先生のやってるセラピーに興味がありますと言った男だった。

 

わたしはその時間、英語で話しかけるとなぜか、

質問とずれた場所に回答をしてくるその男に怪訝な顔をしながら、

「そんなんでどうやって、アメリカの取引先とコミュニケーションが取れるんだ?」と繰り返し言ったものだった。

 

わたしが教えようとしたのは、英語ではなくて、コミュニケーションだった。

彼は、日本の曖昧なコミュニケーションをぶらさげたまま、それを英語にあてはめて、ちぐはぐな会話をしていたことに気づいていなかった。

 

1足す1は2だ、と繰り返し言っても、1と1って、雰囲気いいっすよね。

みたいな、意味のわからない会話が繰り広げられたあの頃。

 

彼は変わったと思う。

わたしが、

「それではわからないんだよ。」と混乱するたびに、

「こういう言い方をしたら、わかる?」と

「これならどう?」と

 

ひとつ、ひとつ、丁寧に

コミュニケーションを見直し、修正し、トライし、そして

ピタリ素直な回答を言い当ててくれるようになった。

 

 

別の言語を持つものの、その世界に通じていこうとするには

本当に知ろうとするのは、本当に愛することでしか、起こり得ないのだと繰り返し思った。

感謝で頭が上がらなかった。

 

それは、飾ったり、カッコつけたり、ごまかしたり

何かを隠したりするときには

絶対に起こり得ない、本当のひととひととの関わりなんだろうと思う。

 

 

ある日はわたしを抱く最中に、

「セックスには何か心配なことはある?」と彼は聞いた。

 

わたしは泣いて、「無い」とそう言った。

 

「どうした?」と泣くわたしの背中を持ち上げ、

わたしは、言葉に詰まり

「優しくて… 」とそう声を震わせた。

 

 

 

あの日の彼に言いたい。

 

「6年くらい経つと、ようやくわたしたち意思疎通ができるようになるみたいだよ。ついでに愛し合うみたいだよ。それまで色々あるけど、本当に辛い時間もたくさん訪れるけど

最後、ほんとうの愛が待ってる。がんばろう。」

 

👍

 

 

 

 

 

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