兄を救いたかった弟と、弟を救いたかった兄

controversial コントロバーシャルという言葉がある。

脳死問題だとか、肉は食べた方がいいのかとか、動物愛護、ゲイやトランスジェンダーの権利に温暖化問題、あげればきりはない。

 

ワクチンを打つか否かももちろんそれに含まれる。

 

一概ににこっちが正しいとすぐには言い切れないテーマのことを表す形容詞だ。

欧米では、controversialその言葉をよく日常的に使う。日本では、全然身近じゃ無い言葉で「倫理問題」と言うのかな。

 

たとえば、「まあ一概には言えないよね」みたいに軽く答えを曖昧にする会話のときに使う。

”That’s simply controversial.” というように、「そりゃ議論の余地があるわ」

という意味合いで。

 

この上の二つの文脈に含まれる意味合いを考えてみたけれど、日本語に適切な訳語がないことや、相当な違いとして

日本語の「一概には言えない」には、

答えは無い。答えを出さない方向に向かわせるエネルギーが含まれていて、

英語の「controversial」には、”議論の余地がある”という文字通り、

どちらが正解だろう、みんなで真剣に考えてみよう、という答えを出そうとする方向に向かわせるエネルギーが含まれていると思う。

この方向はそれぞれ真逆に向いていて、その差とても大きい。

 

 

子供のころ、教科書に乗っていた「高瀬舟」の話を読んで、涙がとまらなくて、止まらなくて、呆然とその場で立ち尽くしたことがある。

小さな頃から、本を読んだりテレビをみたりして、何かのストーリに感動したり、心打たれたり、何かを感じたことがほとんど一度もなかった私にとって、その瞬間は一体全体何がこの身に起こったのか、衝撃的な体験だった。

あまり本を読めない私の、数少ない好きな作家が森鴎外のおじさんなんだけど、みなも日本人に生まれたら一度くらいその話を読んだことがあるかもしれない。

弟殺しである罪人が船に乗って送られるときに、役人にどんな経緯かを淡々と話していくハナシ。

 

病気の弟は、世話をしてくれる善良な兄をおもい、これ以上負担にならぬようにと命を絶とうとした。

その現場に遭遇した兄は、血を流す弟の首に刺さった刃物を、楽になれるように抜いた。

そして、殺人の罪にてその身を流刑地に送られるというあらすじだ。

 

controversialの真骨頂のようなテーマだと思う。環境問題や人権問題のなかでも、「いのち」にまつわるテーマ。

 

喜助さんは、そこで弟を助けることを選んだとしても、弟は死に向かうしかない。一刻も早く命を終わらせるために手をかけることを選び、楽にしてあげることは、果たして正解なのか?罪にあたるのか?

 

「いのちを、操作する」というテーマは、わたしたち人にとって永遠のテーマである。あの子供のときの高瀬舟の体験は、30年くらい後になったあと、自分がそれについて真剣に議論をしていこうとする立場になる、その予兆の爆発の涙だったかもしれない。

 

日々、生きるとはどういうことか?

そうして考えてきて、真剣にそれについて向き合っていくこと。

 

そこには、日本語のぼんやりと「答えなんて無いよね」と覆い隠していく姿勢でいては、決して見えてこない世界がある。

映画やストーリーを見て、「いろいろ思うことがあったな。」と感じることは誰にでも日々山ほどあると思う。

でも、「なんとなく」のその私たちの文化が蔓延している限り、本当に必要な答えに辿り着くときに

「なんとなく自分はそうしてる」までの、いいことには有効だけれど、その後、「なんとなく間違っている」ものにも巻かれ、「なんとなく絶対違う」ことにも結局屈してしまい、

結局今の日本のわたしたちの目の前には、山ほどの

 

「間違ってると明らかにわかっている」にもかかわらず、何も言えないまま間違える。

でもそれに気づくとどうしようもないから、気づいてないふりをし続けて、それは自分をも騙し続ける。

本当に自分でも気付かなくなっちゃう。

というおそろしい現実が広がってる。

これがね、悲劇だよね。今の日本の。

 

ワクチンを打つか否かてのを自分で考えるのも、絶対良いきっかけになると思う。

とくに弁論を繰り広げて、「わたしはこうこうこういう理由でワクチンは絶対打たない!」とかを主張するために考えを持つのではなくて、ただ静かに、喜助が弟に手をかけたときのように、自分は、いのちとこう関わってゆく、自分は、自分のからだとこう関わってゆく、と知っていること。

 

それは、先に書いた、「気づいていないから」誰かを苦しめたり、「なんとなくわからない」から自分を苦しめたり、

そういうネガティブな状態でありながらも、ぼんやりとしすぎて
大切な気づくプロセスにおいて言えば絶望的に盲目的な状況から、たった1人でも、抜け出せる希望だと思うんだよ。

 

子供に、「どうしてひとを殺しちゃいけないの?」

「どうして人は食べちゃいけないのに、牛は食べてもいいの?」

そうやって聞かれてさ、確かに答えるのは簡単ではないかもしれない。

道徳の授業で、教科書になんとなく答えが載っていても、

自分が答えを持っていなければ、絶対に語ることも教えることもできない。

間違ったものに巻かれたまま、それに気づいていないフリをしている限り、それはそばにいる人にそのまま伝染し続けてゆくから。

きちんと自分の中に、確かな感触を持っているかに尽きる。

 

でもねわたしたちだって、絶対小さな頃に一度くらい、疑問に思ったことがあったとおもうんだよ。

結局誰も教えてはくれなくて、答えがどこにも落ちていないことで、諦めとナム(ぼやっと麻痺してる状態)に向かうしかなかったこの国は、やっと目を覚ましていかないといけないときに差し掛かってると思うんだ。

 

 

コメントする

メールアドレスが公開されることはありません。