「しょのとき」は、いつも、鮮やかで

ふつうのひとの記憶は、

おとといのあとに昨日がきて、そのあと今日がきて、明日がきて、

さら驚くことには、その次に明後日がくるという。

 

わたしや、きょうちゃん(ちびっ子)や、小さな子供たちの記憶は違う。

 

わたしの記憶のあり方は、一般的な日本人としてでいうと、およそ5歳くらいらしい。

 

かろうじて自分の場合だと、昨日くらいまでは認識できて、明日くらいまでは認識できるが、

おとといや明後日は、「むかし」「さき」

みたいな感じになる。

がんばればいけるけど、ほとんどもたない。

 

 

よくタオくんが小さい頃、

「しょのとき」という言い方をしてた。

 

「しょのとき」には、昨日や、おとといや、1ヶ月まえや、ずっと前のことが含まれていて、

 

「たおくん、しょのとき、れごらんどいったよ」

「たおくん、しょのとき、おじいちゃんがいったよ」

 

それはそれは可愛くて好きだったんだけど

実は自分も、ほとんど同じだったということが、やっとわかった。

 

 

そういう場合

出来事が起こった瞬間がとても、とても鮮やかで

そして過ぎ去った瞬間に

さっき起こった出来事は

はるか、とおい、過去へと葬り去られていく。

 

でもそれは、記憶が死んだとか失われた感じではなくて

「しょのとき」という名の、大きな星がきらめく夜空に

一個、お星さまがキラリと煌めいた

という感じなのだ。

 

それは、3日前に起こったのか

3年前に起こったのかが、わからなくなる。

 

そういう意味で、わたしたちは、鮮明に、それを覚えている。

そして、一瞬で、忘れてしまう。

 

 

それってね、一見

寂しい感じがするじゃない

 

でも違うんだ。

大人として日常生活は非常に不便だよ。

みんなから、毎朝毎昼「ごはんたべた?」と聞かれて、ハッとするわけなんだから。みんなも大変。

 

でも、時とともにぼんやり記憶が薄れていく、時間に沿って色褪せていく

普通のその記憶のあり方と違って

 

3年前の出来事が

さっき起こったことのように

一瞬で鮮やかに蘇るのも、わたしたちなんだ。

 

わたしが死を目前に感じた去年、ふらりと一度だけ様子を見にきた山下さんが

ある日、とても時間が経ってから、またも死を目前にした私を見かねてやってきた。

 

その時わたしはトイレでウンチをしていて、

玄関のドアがガチャリとあいて

「マイ〜」

と声が聞こえて、眉間にシワを寄せて、トイレのドアを開けて「トイレにいる」と言った。

 

それは、まるで、先週の続きのようだった。

 

 

それは、ブツリ、と突然途絶えてしまう代わりに
ふわり、と突然つなげることができる、自由自在のコードのようなものだと思う。

 

だからね、安心してほしいんだよね。

 

たとえ、大人の感覚で、

「ああ、とても時が経ってしまったな」と後悔したり、何かが失われてしまったと感じたりしても、

恐れないでよくて

なぜなら、きっとみんなが感じている「時の経過」が

 

純粋な人間たちには無効だから。

 

それは、いつもそばにあって

そこに続いていて

永遠で

大切で

 

死んでも、忘れない。

 

 

「忘れちゃった」は、悲しいことじゃない。

忘れちゃうから、時々ノックをしてあげればいい。

そのたびに、わたしたちは、信じられないくらいに鮮やかに

今さっきからずっとそれが、続いていたかのごとく

思い出すから。

 

 

あたらしい引越し先の近所には、たんぼがいっぱい広がってて、そこを走りぬける。

春も夏も秋も冬もきっと、そこを走り抜ける。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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