誰かを、可哀想だと思うこと

わたしは、ずっと人から可哀想だと思われてきた。

わたしの息子は、ずっと人から可哀想だと言われてきた。

わたしは、自分が誰かのことを
可哀想だと思ったことが一度もないので😂

それがどういう感覚なのかが、昨日まで理解できなかった。

 

どんな不幸な人間も、可哀想ではないからだ。

どんな苦境や困難を持って生まれてきた人間も、意味があり、乗り越えるだけの力を平等に持ってここに存在している。

 

だから、必死で手を差し伸べることはあっても
誰かを憐れんだり、同情したりする
意味がよくわからなかった。

 

 

障害者のレッテルは、単に見下される。単に可哀想と言われる。無駄に弱者にされる。

シングルマザー然り、パパがいない子供しかり、ママは発達障害子供然り

みんな、「可哀想」が大好きだ。

可哀想と思いたければ勝手にすればよい。

これまでそう思ってあんまりそれについて、本当深く考えたことがなかったんだけど
ようやくエネルギーの流れが、理解できて、それはなんていうか、
いわゆる「現実化」

自分たちの望む世界を自由に作り出すことができるこの世界の

とてもわかりやすい、そして悲しい現実化の結果なんだあ。
と腑に落ちた日だった。

 

 

誰かを可哀想だと思い助ける人は、可哀想な人を必要としている。
本当は可哀想ではない人を、可哀想の檻に閉じ込めて、幸せになることを実は無意識に望んでない。

じゃないと
可哀想とは思わないから。

私たちは
どれほど息絶え絶えの生き物にさえ
勇気や信頼、愛を寄せることができる。

そして支え、助けることができる。

 

自分の方が上だとか、助ける優位に立つ感じとか、そういうものがいっぱい感じられるあり方と、

そんなもの皆無な、ただ愛を注ぐあり方。

 

 

可哀想だから仲良くしたり、可哀想だから友達でいたり、可哀想だから助ける人は

自分がヒーローでいられる間はとても幸せだ。

そして、相手が力強く進もうと決めた時
恐怖を感じる。

また可哀想な人を見つけ出すか、作り出し続けるか、自分が一緒にいたい相手を、もう一度
「可哀想」な状態に押し込めるのだと思う。

 

人が思い込み、相手に渡すエネルギーというものは
ポジティブなものも
ネガティヴなものも
とても素直に現実創造につなげる。

 

 

わたしはそんな中、自分や自分の息子を哀れんだりしてなかったので
周りは自由にジャッジしたり勝手に思い込めばそれでいいのだと
そう思ってきた。

 

でも、直接言葉に言われなくても、その見下す、可哀想エネルギーは人を不幸へと落とし入れる。

そして
「あなたを信じてる、」は必ず人を強くする。

 

日本は特に、「見下す」が大嫌いだ。
そんな自分を覆い隠して、見下してないふりをして、可哀想を「慈悲」と「愛」と思い込んで、自分の親切さに酔う。

いやー、”わたしは見下してません”感がみなさんすごいのね。
言葉の端々に散らばる矛盾の数々よ。

 

 

たおくんに、

今度みんなにあったらきちんと言いなさいと言った。

「ぼくはかわいそうじゃないよ。だから、かわいそうだと思わないで。

かわいそうだとおもうひとが、かわいそうなんだよ😊」

 

 

愛は、誰かが幸せになっていくのを次々後押ししていく。
同情は、誰かが幸せになっていくのをどんどん遅らせる。

誰かに助けてもらうなら、まず
相手がどちらかを必ず見極めるといい。

 

そして誰かを助けたいなら、まず

相手が本当に幸せになっても
自分の助けを必要としなくても
それでも側で愛したいか
それとも
相手が幸せになったらもう、助ける必要はないや。と思うか

考えてみて欲しい。

 

世界に
可哀想は要らない。

そう言う人ほど、本当、何もしないんだよね。

「心配してる」と言うだけ。

 

この人生で嫌というほど情けをかけられてきて今

わたしはその全てを遥か遠くへと見送ることにした。

 

 

そして、わたしやたおを
可哀想だからそばにいる人たちから
本当に愛している人たちへと
総入れ替えをする5月。

 

幸せへのコミットメント、よい季節。

 

 

 

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