いいわけ

昔なんかいか、何人かに同時に

「いいわけ」を求められたことがあって、

言い換えるとなんていうか、

パニックを起こすときのわたしがあまりに支離滅裂なので、

それについて

情状酌量の余地というか、釈明の余地を与えるみたいな。そんな時間だったと思う。

 

つまり、「ちゃんと説明するならば、見逃してやる」みたいな感じかな。

 

 

最近つくづく、とくにこの日本の中で人々が交わすコミュニケーションの普段みられないような裏側というか、人間性が丸裸になる場面を怒涛の中でずっと眺めてきて

(それはわたしが発達障害である、という前提からはじまってそうなる
パニックを起こしたときに苦しさと混乱しすぎてめちゃくちゃになるから

相手が手を差し伸べるか、弾弓するかで天国と地獄に分かれる)

 

 

いろいろ腑に落ちたというか、「そうか」と理解できた部分がいっぱいあったんだけど

だんだんやはり、ものごとをわかっている人、というのは

言葉が少なくて済むもんなんだよな、と思う日々。

 

過去、わたしもまた延々と、言葉を頼りに長い説明をし、そして情状酌量の余地を求め、まあひらたく言えば言い訳というか、自己弁護というか、

自分を正当化したいだけだったんだけど

そういう時期があった。

 

 

いまこの日々の中で、それがまるで別次元の、宙に浮いたシャボン玉が

あっけなく消えていくみたいに

無意味になる瞬間を次々に臨んで

次第に、声が出なくなる時間が増えた。

 

 

ただそのときも、わたしはそこで、「いいわけ」をしなかったことを思い出す。

 

ああ、いつかそれを求められたときに

言葉をつぐみ、

黙ったことで

 

「では、有罪。」

みたいにされたけれど

 

 

結局もしもあのとき、自分が長い、弁明や意見を述べていたとしても

結局それは、泡になって消えたんだろうなとおもいながら。

 

 

言葉と長い時間、向き合い続け、格闘しつづけ、もがき続けたこの18年。(約)

それがいかに無意味であるかとか、いかに大切であるかとかを

こんな形で知ることになろうとは。

 

と思う。

 

 

何かを伝えたいときに

とても長い文章を書いてくる人は、いつもとても、くるしそうだ。

 

それは、そこに、愛してるよとか、ごめんなさいとか、大好きだよ

みたいなシンプルなことと、

自分がどうしたいかを書くだけで事足りるのに、それができないから。

 

 

風通しのいいコミュニケーションが、増えるといい。

こころからそう願う。

 

 

賢くなってくると、色々、延々言い訳をしはじめる、5歳でもそうだ。

 

「だからそういう嫌な言い方はやめて、」

「じょうずにできなかったけど、ごめんね。だけでいいんだよ。」

 

そういうと、必死で頭を使って言い訳をこねくりまわすように

がんばっていた子供は、

安堵の顔になる。

 

聡明さも賢さも、別でおおいに役立ててほしい。

 

 

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