人の役に立ちたい、を捨てる

優しいけど淡々とって、大事なことだよね。

昔よくセッションでまいさんに言われた、

「愛があることと理解していることとは別物」というの。あれに似てる気がする。
理解してないから愛がないわけじゃない。
理解してなくても、愛はある。

あの辺の教えは特に目から鱗だった。

困ってる人に対して変にベタベタするわけじゃなく、必要なことを淡々と援助していく優しさとか愛って、すごくいいなと思う。

 

 

昔そういえば、理解してなくても「愛」はそこにあるよ

という話をよくしたんだけど

一周まわって

「愛」があっても理解してない

とどういうことが起こり続けるのかということを

実体験でイヤと言うほど知らしめられてる今。(あってる?)

 

 

ひらたくいうと、日本は

愛や豊かさがふんだんにあるにもかかわらず、使い方を知らない国。

 

こんなにも豊かで、こんなにも資源も人々の愛も優秀さも兼ね備えていて、

それでいて

使い方をこんなにも知らない国は

世界中どこを探しても日本はぶっちぎりだと思う。

 

それで、愛があればとりあえず理解できなくてもそれでよい

と思ってたところから、とんでもなかった・・・

ってところまで来て、愛があるならそれを使う。

理解が足りないなら愛を使って理解をしていく。

 

最近はその訓練をみんなでしているみたいなイメージ。

 

「何かをしてあげたい」

「誰かを喜ばせたい」

「誰かを助けてあげたい」

 

これね、↑一見素晴らしいことのように見えるでしょ、

これをまず捨てるところから、本当のコミュニケーションは始まる。

 

上どまりのひとが、どれほど多いことか。仕事も社会貢献も日常の人間関係も同じね。

それはつまり、すべて自分のため。

 

誰かを喜ばせることって、自分が嬉しいからやるの。

誰かを助けてあげたいって、自分が人の役に立ちたいからやるの。

結局は、自分本位ってこと。

 

それを捨てて一段階上に上がると

 

何かをしてあげたいからするのではなく、相手がそれが必要だから淡々と差し出せるようになる。

誰かを喜ばせたいからするのではなく、誰かがそれが喜ぶから淡々と差し出せるようになる。

誰かを助けてあげたいから助けるのではなく、誰かが助けを必要としているから淡々と助けられるようになる。

結果相手が幸せになったら、それは自分の幸せになる。

でも、相手を幸せにしたい!と思ってやってない。あくまで結果。

 

 

「人の役に立ちたい」と「自分」が思ってるうちは、リアルに人の役には立てない。

自分が前に出てくるひとたちの、押し付けがましいずさんな愛は、

先にも書いたとおり実際は負担でしか無い。

 

それに比べてエゴが抜けてるひとたちの淡々とした愛のかけかたは、

言葉にし尽くしづらいくらいシンプルなもので、かゆいところに手が届くものであり、本当に必要としていることであり、

それは心からの愛と安心を与えてくれる。

 

それはあたりまえではない。

あたりまえではないからこそ大事だし、尊い。

 

人の役に立ちたい

と普段から思っているひとは一度振り返ってみてほしい。

 

その想いが、無くなった時が

人の役に立てる時だよ。

 

セラピストも同じ感じだよね。

 

誰かの悩みを解決してあげたいって鼻息荒く思ってるうちは、結局自分の自己満足でおわる。そんなのはさっさと頭打ちがくるさ。

 

 

じゃあわたしはなんでセラピストやってるんだっけ。

わかんない。

ただやってる。

最近はご飯を作るほうに移行する準備もコツコツやってます。

子供と親子のコンサルとか食事コンサルとかもモニター受付中です。

 

 

 

 

 

 

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