”なみだがこぼれた。”

 

 

自分が苦しんで悩んで迷ってわからずにきた

途方もないたくさんのことを

どう解決し、どうすれば前に進めて、幸せになれるかを教えてくれたひとは、いなかった。

そもそも同じようなことで苦しんで悩んで迷っているような人自体ほとんどいなかったし、同じことで苦しむひとは、わたしよりもさらに、迷っていたから。

 

だから、わたしは自分で答えを探さなければいけなかった。

 

おべんきょーのじかんがながすぎて、なみだがこぼれるくらいに悲しいときに、

 

「そうなんだねー、悲しかったねー、ヨシヨシ」

という言葉は、まじで、最終的には超無意味だということが

自分自身、この半年膨大な量の日本の薄っぺらいコミュニケーションを突きつけられた最後

ようやく理解できたからだ。

 

 

ヨシヨシされても、国語の時間はやってくる。

拷問のような時間が繰り返されても、

「そんなのみんな国語の時間がんばってるよ」と、本当の辛さや悲しみに見向きもしないひとがほとんどの中で

どれくらいのひとが、それをちゃんと、考えて解決しようと、思って動くだろう。

 

 

なぎは、ゆきちゃんの息子6歳。

自閉症で、みんながわかることで、わからないことがいっぱいある。

わたしと同じだ。

アラビア語の機械工学のクラスに、200分座って真面目に授業を聞きなさい、それも毎日と言われたら、あなたはそれでも、

「そんなالجزيرة العربيةみんながんばってるよالجميع يبذل قصارى جهده. شبه」

と、平気な顔していられるか?

 

彼は普通クラスで新入生になることを選んだ。

 

きっと、毎日がチャレンジで、毎日嫌なことや、嬉しいことや、スペシャルなことにまみれてる。

 

でもそれは、発達障害じゃない1年生のタオくんにとっても同じこと。

 

 

こどもたちは、ちょっといやで我慢すればなんとかなることや、心がバラバラになってしまうくらいに辛いことや、悲しくて涙が止まらないことを、

どうしていいかわからないままにそのまま大人になっていく。

 

だから、大人になっても、その解決の仕方を間違えて、心を閉ざして、変な方向に割り切ったり諦めたりして、つまらない人間になっていくんだ。

 

いっこいっこ全てを解決することは、可能なんだ。

それはほんの、とてもささやかなことでいい。

小さなおまじないでも、信じられる人がいることでも、今日のおやつのことでもいい。

学校にいかない選択や、国語をやめる大きな選択もそこには含まれている。

 

彼らの涙が、うれしい涙に変わった時の、

ほんとうに素直なその希望が、世界を救うんだとわたしは知ってる。

 

 

 

 

 

 

 

 

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