全員が、子供だった

こないだのミーティングのときに、あらためてなぜ「食・子育て」なのかという質問をもらって、あれこれセラピストとしての視点だとか、考えて答えてはみたものの、

もうすこし平たく言うと、自分がそもそも「こども」のまま生きているからだということがわかった。

無邪気で傍若無人、好き放題のこどもという意味ではなくて

リアルに、こどもと同じようにできないことやわからないことが多く、目の前が真っ暗になり、ちょうど未就学児が保護者がいないと右往左往して不安になってしまう状態で生きている。

 

これまでは、自分の不安やできないことは、癒されていない感情が原因なのだと思い

癒しを続けてきた。

たくさんのことが変わったし、本当に人が変わったように乗り越えることの連続で、このまま人生は右肩上がりなのだとそう思った。

ところがどっこい、突然の頭うちが来たじゃんね。

 

そして昨年、発達障害の診断を受けて、ビックリしたのは、

情緒的・精神的な癒しは癒して変われても、

もともとの脳の作りは生まれつきで、どんだけ頑張っても直るものではないということだった。

 

あれから数ヶ月が嵐のように経過して、いま本当におちついて自分のことを捉えてみると

子育てで迷うことがなくて当然なのだ、と思った。

 

子育ての相談を受けるたびに、一度も考えたことも学んだことも育児書も読んだことのないわたしが

なぜ答えを知っているのか、いつも謎だった。

 

わたしはそれを、自分に与えられたギフトなのだと思っていたのだけど、別の意味でギフトだった。

わたしが、子育てを必要としているこども側だったから、どう声をかけてもらえばうまくいくのか、どう助けてもらえたらうまくいくのか、どんなことがわからなくて、なぜ腹をすかせて泣くのか、

その気持ちがただ自分と同じだからわかるだけだったのだ。

 

わたしたちは、いつか子供だった。

そのうち大きくなり、そのときなぜ泣いてばかりいたのか全部忘れてしまった頃に、

もういちどその子供を育てたり、子供を持たずに一生を終えたり、こどもが嫌いだと言ったりする。

 

なぜ子育てをサポートしたいかという理由は、「自分が一番こどもの気持ちがわかるから」ではない。

昔は、たとえば私は不幸だったので、不幸な人間を自分のことのように助けたい、という「自分のために」人を助けていた時期もあった。

 

「こども」というのは、月齢や年齢を指すことばではない。

まだ、歪められたり、汚されたり、変なふうにねじまげられる「前の状態」を指す。

 

つまり、癒しがすすめば、何歳だろうが「本来の状態」に戻るわけなので、波動が高くなって、こどもに近い存在になっていく。

 

つまりわたしが支えたいのは、いま実際にまだ汚される前の純粋な存在を、そのまま守りながらすっくと

人生を歩めるようにする部分であり、歪んでしまったものを、もとの状態に戻す部分でもある。

大人にも関係あるんだ。

 

子育てにつまづいたお母さんのためや、きちんとした愛を受けていない子供のためや、

いわゆる「子育て」から連想されるものを限定的に何かしたいと思っているわけではなさそう。

 

それは、自分が存在していることそのものであり、世界そのものであり、この世界のすべての人に共通して与えられた課題でもあり、未来であり、希望でもある。

 

「すべて」なんだと思う。

 

わたしたちはいつでも、こどもに戻ることができる。

「こども」という名の、「本当の姿」、愛に。

 

 

わたしたちは、いつか全員が子供だった。

今自分が、光や音に過敏に反応して、チラチラ揺れる光を追いかけることや、文字が上手に読めなくて、音や声をぐちゃぐちゃに感じとることは

なにもとくべつなことじゃないんだよ。

 

赤ちゃんの時は、わたしたち全員がそうだったのだから。

忘れちゃっただけで。

 

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