青い空と、母と、女神と

こんにちは。スタッフKayokoです。

今日の関西地方は、清々しい青空。

ゆったりとお散歩して、じんわり何かを感じるのも素敵ですね。

 

さて、女神が母の日企画で再編集したおかあさん記事

「あなたがお金持ちになりたい本当の理由はなんですか?」

5000文字近く無料で公開しております。

再講読して頂いた方から、感想も届いております。

 

ひとりでの子育てを決断した方、

 

シングルマザーとして生きることを決めた方、

 

DVの共依存の関係から抜け出せない方…

 

暴力やお金の問題をお持ちの方も、是非お読みください。

 

女神が妊娠時期の孤独な絶望期から産婦人科でのエピソード追加し、

 

ひとりで母になることを覚悟するまでの過程と、その中で見出した”お金”にまつわる執着の正体を

 

母への愛を通して綴っています。

 

 

「あなたがお金持ちになりたい本当の理由はなんですか?」

わたしの母は、

愛情表現の苦手な、

とても不器用なひとだった。

わたしは生まれてから、30年以上たっても

自分は母に愛されていないと、思い込んでいた。

 

 

31の時、つきあったばかりの相手との間に妊娠して

あっという間に典型的なDVの関係になり、

もうドロドロで泥沼でもつれにもつれ

相手の親が菓子折りを持って平謝りしにくるほどだったころ

わたしはほとんどノイローゼで、

正常で健康的な判断力はゼロで、

なにが正しいのか何がおかしいのか
わからないまま

相手からの支離滅裂な暴力的なメールの嵐に

飲み込まれる日々であった。

遂に、誰がどう見ても状況はおかしくなった最後

自分のちからではどうにもできず

第三者に間に入ってもらうしかなくなり

警察にいつでも証拠が出せるように、
きちんとメールのコピーをとっておいてくださいと言われたころ

わたしは、

生まれて初めて

「母から愛されていた」ことを

知った。

パートナーからの暴力に苦しんでいるひとは

大勢いることだろう。

それが身体的なものであっても、性的なものであっても、

精神的なものであっても

根本に横たわっているものはどれも同じである。

わたしは当時、心理学をかじったことがある程度の

ふわふわしたカウンセラーもどきだったが

数年後、出産したのち

地に足のついた、カウンセラー兼セラピストになった。

セッションを受けていたクライアントさんが、

殴られ警察を呼び、そのままカウンセリングに入ったとき

わたしは「辛かったね」

とは一言も言わなかった。

そのデスパレートな痛みは、

誰よりもわかっているつもりだ。

でもだからこそ、目を覚ましてもらわなければいけない。

「警察を呼んだんだね。

自分が、被害者になって、相手を加害者にして、

そしてこの状況を完璧に作り上げていることは、

わかるね。」

「怖かった」と泣いている彼女を前に、

わたしは淡々と、はっきりとそう伝えた。

目を覚まさなくてはいけない。

自分を幸せにするために、

自分を守るために、
その状況に甘んじることは

同情されて

相手が悪く、自分がかわいそうなのだ

と浸りこむことは

本人はおろか、
誰ひとりとも、幸せにすることはできない。

わたしは自分の経験から、

暴力をふるうのは必ずしも加害者の問題だけではなく

共依存に入った両者が

同時にその状況を生み出していることを知っている。

つまりは自分にも非があることがわかっていたため、

わたしは、

自分を責めた。

責め続けた。

相手に言われるがままに、
自分が悪かったのだと思い続けた。

暴力を振るう相手が悪いのだと思うことができれば、

自分は被害者なのだと
思えれば、

幾分かは楽だったかもしれない。

でもそれは、

そんなに簡単ではなかったし、

依存状態に入った人間が
簡単にその環境から逃げられるかというと

それも実際はとてつもなく難しいというか、
ほぼ不可能に近いと思う。

感情の解放と合わせて、

しっかりとした現実の理解も合わせて必要になってくる。

周りのひとのサポートも必要となってくる。

自分と向き合うのは「安全」を確保した

あとで十分だ。

わたしは真面目で、ストイックで
そして自分と向き合うことを怠らなかったため、

とてつもなく苦しい状況のなかで

とにかく答えを探そうとした。

それからもっとずっと後になって、

ひとが学び、そして気づき
前に進んでいくにあたって、

とくに辛い出来事のなかにとどまる必要は一切ないのだということを知った。

たとえば自分が反応したり、こじれた関係の中で相手と
関わり続けていかなければ

そのなかから何か学ぶことはできないんじゃないかと

そう思いながら

自分の身を愛のない危険な状況においているひとは

多い。

学び、気づき、前に進むことは、

あなたにとって「愛」と「優しさ」と「思いやり」がある場所で

安心しながら取り組むことはできるから、
だからまず、

そこを勘違いしているひとがいたら

その状況は今すぐに終わらせてほしい。

そんなにも自分を追い詰めなくとも、

あなたは必ず幸せにたどり着ける。

約束する。

母の話に戻ろう。

わたしが養育費その他諸々のやりとりで
巻き込まれたその惨劇を、

ひとりではとても収集がつかなくなり

現実的に危険な状態に陥ったとき

ある日

夜中にトイレに起きてきた父に、

震えながら
メールをプリントしたものを抱えて

「助けて・・・」

と見せた。

わたしは今までにももちろん、

長い間親に迷惑をかけながら、
助けてもらいながら生きてきたが

本当の、剥き出しのSOSを出したのは

そのときが初めてであった。

わたしのお腹には、

胎児がいた。

わたしは、これ以上

自分の身を危険にさらすわけにはいけなかった。

自分はどうなろうが、

その小さな命は命がけで守る必要があった。

そのあと家族が間に入り
実家と相手の家を行ったり来たりしていたわたしの荷物を

父が片付けに行き、
なんどもなんども悲惨なやりとりが繰り返される中で

家族内で今後の話をしたときに

わたしにとって
意外なまでに印象的だったことが

母が、誰よりも最も

怒って感情をあらわにしていたことであった。

わたしは当時、全く怒っていなかった。

どちらかというと、相手に完全に洗脳されていたわたしは
すべて自分が悪いと思っていたし、

なんとか関係を修復して

相手を落ち着かせて養育費を受け取りたかった。

当時まだ、お金のことでも

激しいコンプレックスを抱えてこじれていた私は

その「お金」に執着をしていて、
それが余計に状況を悪くさせた。

母はその辺、潔かった。

わたしはいつも大体、

なんでも許して全員愛したい、みんな悪くない

みたいな理想郷のなかで生きていたが、

母は現実的だった。

生まれてくる子供の気持ちだとか
相手の気持ちだとか、相手の親の気持ちだとか

そんなことは一切おかまいなしに

「一銭ももらうんじゃないよ」

「2度と関わるんじゃないよ」

と手土産を持って謝りにきた相手の親すら、

冷たくあしらった。

わたしは

「相手のお義母さんは優しくしてくれたし」とか、

「子供がいつか父親に会いたいというだろうし」とか

いろんなことを考えていて、

母の態度と自分の感じていることにギャップを感じていた。

そんな状況のなかで母が感情的をあらわにしたピークのときに

わたしがふと、なぜそんなにも目の敵にするのかと
聞くと

次の瞬間に

「そんなの大事な娘が、こんな目にあってるのに
許せるわけがない」

と怒鳴った。

わたしは、

わたしが、母にとって、まさか

「大事な娘」であったなんて

その時に初めて聞いたような気がした。

いろんな意味で、

とてもショックを受けたのを
よく、覚えている。

どちらかというとそれまでは、

小さな頃から何かよくできたときも認めてくれず
何をするときも反対してきた母にとって

私は、「自分が何かを選択して」

「幸せになる価値がない」存在だと

「暴力をふるわれて当然の存在」だと

思ってきたからだ。

当時のことを振り返って
冷静に思うが、

もしかするとわたしは

母の愛を確かめるために

自分を陥し入れる必要があったのかもしれない

とすら思う。

そのくらい、

その瞬間、おかしな話だが

こんな絶望的な状況で
自分が傷つけられて

”良かった”

と思ったのだから。

母からの失われた愛情といえばもうひとつ、

セラピストになって間もない頃、

集中的に過去の傷を癒し
古い感情の解放を行っていたときに

衝撃が走った気づきがひとつあった。

冒頭に書いたが

母は、

愛情表現の下手なひとであった。

絶対に褒めてくれなかったし、

なにかいい成績をとっても一緒に喜んでくれたような記憶はなく、

わたしはとにかく、
母に認められたい一心で

30年以上生きてきた。

今でこそようやく自分に軸がおりて、
自分が望むことを選択して生きていけるようになったが

ほんの少し前まで

自分が行動してきたほとんど全ての価値基準が

「自分」ではなく「母」からきていたことに

気づかされたときは
脱帽するしかなかった。

そこから一個一個、

わたしは自分を取り戻してゆき今に至る。

そんな時期、
わたしはまだ強いお金の不安に苛まれていて

しょっちゅうそれと向き合う必要があった。

先ほど書いた、養育費や物質的なものに対する執着にも
長らく苦しみ、手放すまでに時間がかかった。

「自分ひとりで生計を立てて一刻も早く経済的に自立しなければ」

とプレッシャーに追い込まれながら

不安ばかりで、
思うようにいかない日々は続いた。

わたしは金銭感覚がもともと極端なところがあって、

普通のひとには理解しがたいほどの超絶ケチか、
はたまた高額なものにポーンと抵抗なくお金を出すかの

どちらかであった。

実家は公務員の父と
扶養内に収まるように働くパートの母で

1千万円台のささやかなマンションのローン支払いは
父の定年前に終わっていて

節約節約で質素に暮らし続けた両親は

年をとってお金に困ることはなく、
貯金もして株を買い、適度に趣味にもかけられる

いたって普通に恵まれた環境。

わたしはケチな父のことを長らく軽蔑していて、
その反動で自分の金遣いが荒いのだと思ってきた。

財布に入っているお金は、

いくらだろうがきれいさっぱり使う自信だけはあった。

付き合った男の人には
「俺よりもっと金持ちを見つけてください」

と言われて本気で凹むことも多々あった。

そして、その古い傷を癒していた時期、

その頃も常に自分にまとわりついていた
いやな感覚はだいたい「お金」が絡んでいたのだが、

ケチで何も買ってくれない父とは対照的に

母は、わりと

私や妹に、気前よくお金を渡してくれたことをふと、思い出した。

自由な生き方を全肯定で認めてくれる父とは違い、

母は色々なことを気にしたが、

その分

例えば妹が東京から帰ってくるときには
必ず忘れずに交通費を渡していたり

わたしがスーパーで両親の分までご飯を作って
持って行ったりすると、

少額でも必ずお金を差し出してくれた。

育った環境というのは不思議なもので、
他と比べる機会がないものほど

それが当たり前だと思い込む。

歩いていける距離の駅まで
いつも送り迎えをしてくれた両親のことを、

当たり前だと思っていたが、当然それは
当たり前ではなく

30近くなってアメリカの大学で勉強したいと言った娘に

生活費を1万ドルづつまとめて振り込んでくれる親に

当時つきあっていた彼はおどろいていて、
「感謝せなあかんで」と言っていた。

彼の実家は会社をやっていたので
うちよりもよっぽど裕福だったはずだが、

成人してからお金をくれるようなことは一度もなかったようだった。

わたしは感謝こそしていたが、

その事実を知り、

とりたててお金持ちじゃない親が
質素に暮らしてためてくれたものを

自分が湯水のように使っていると思うだけで

罪悪感で吐き気がするような時期は続いた。

母の実家はわりと大きな古い家であった。

田舎なので、田んぼとか、あまり役に立たないけど
たくさん土地は持っているようなよくあるパターンである。

贅沢な暮らしは一切なく、

破れた服を縫ってずっと着ている祖母が
農作業に没頭しているような場所。

私は現在「松永まい」という名前で活動をしているのだが

「松永」は本名ではなく母の旧姓を使っている。

結婚して一度英語の苗字を名乗り、
その後離婚してもそのままの英名を名乗り、

その後手続き上、国からの補助を申請しなければいけなくなったときに

嫌々本名に戻し、

そのあと活動する名前を

「松永」にした。

本名を忌み嫌っていたわけではないが、
とりたてて気に入っていなかった。

できることなら早く結婚して、
名前を変えたいと

わけもなく思ってきていた。

そして松永を名乗るもうひとつの理由。

わたしは、

古く由緒正しき大きな家

に憧れていたのである。

正確にいえば、憧れていたのではなく
かなりのコンプレックスを抱いていた。

たとえば同じくらい経済的に豊かな人を見ても、

自分がビジネスか何かで成功し築いた富にはさほど興味はなく、

もともと由緒正しきおうちに生まれているようなひとに

反応した。

たとえ今質素な生活をしていても、
実家がお金持ち

といかいうひとが

なぜか羨ましかった。

自分で稼ぐことは、できる可能性としてゼロではないが、

立派なおうちに生まれることは

逆立ちしたって一生叶うことはないことを

わたしは知っていた。

そういうロイヤルな品格とか高貴さに
わたしは価値を見出していた。

「一流」という言葉に弱かった。

わたしは、母が嫁いで
経済力も大してない父のもとで質素な暮らしをしていることが

いたたまれなかった。

ケチな父のおかげで、

美味しいものを食べるのにも常に値段を気にして
食べたいものも注文できない母をみて、

それに対して一切の悪びれない父をみて、

わたしは絶対にこんな風にはならまい

と小さいながらにずっと感じてきたのだ。

思い返す限り、

母は今の生活にも父との結婚生活にも
満足そうであったのに、だ。

母は3人姉妹の末っ子で、

それぞれの姉は、もともとある土地に家を立てたり
近所の古い家に嫁いだり、
土地を所有してアパートとか駐車場を経営しているのに

母だけが、とても小さな核となることを選択して

母の実家との関わりを最低限にしていることに

わたしは常々疑問を感じていた。

今から思えば、

古い家だからこそ色々なしがらみや
面倒なことがあるに違いなく、

母は「自由」を選択したにすぎない。

でもわたしにはどうしてもわからなかった。

わたしは、

死んだ松永の爺さんが大好きだったこともあり、

「松永」に執着した。

<古い家には仏壇がある。松永のひいじいさんと木魚と俺。>

祖父さんが生きていたころ、

わたしはその家が好きであった。
祖父は、破天荒なひとで、波乱万丈な人生を
自由に生きたひとであった。

小さいころはよくわからなかったが、変わった人であった。

頭がよく、ハンサムで、大正生まれで
わけのわからない毛皮の帽子を被るようなお洒落なひとであった。

そのあと祖父さんが死んで、祖母だけになったときから

わたしの足はその場所から遠のきはじめた。

祖母はわたしが学生の頃から、
いちいち髪の色から何からを小うるさく叱った。

遊びに行くたびに小言のようなことを言われて

全然好きにはなかった。

そして

わたしが松永の家に出入りするのを辞めたきっかけになったのが

その、未婚のまま子供をうむという選択を余儀なくされた
妊娠である。

わたしが相手ともめていたことを親戚一同は知っていた。

結婚をせずに身ごもっていることも周知の事実であった。

母はそれを、松永の祖母に言わなかった。

周りは、

「そんなこと知ったら保守的なおばあちゃんは

ショックで死ぬんじゃないか」

といったところで、
誰もが様子を伺っていたのだ。

それでも私の腹は日に日に膨れてきて

とくに報告をしなければいけない義務はないが
いつかはわかることなので

わたしはタイミングを見て祖母の元へ行った。

わたしはまだ当時、将来セラピストになることなど
1ミリもおもい描いておらず

当然のごとく感情を解放するとか、過去の記憶を癒すということも知らず、

まだまだ傷だらけで不安だらけであった。

ヒリヒリと、ギリギリのところで踏みとどまっている状態で、

なんとか生きていかなければと
出産後の色んな計画を頭のなかで思い描いていた。

わたしは
叔母が一緒に住んでいる母の実家、松永の家に赴き

バンジーを飛ぶ勢いで

おそるおそる、

言うタイミングを見計らった。

その時期、

私は、お腹の命の尊さが、
手放しで祝福を受けられない状況に

強いもどかしさと悲しさを感じていた。

本来生まれてくるものは、

かけがえのない喜びと愛に満ちたものであるはずだ。

でもわたしは、そんな状況下において

周りから「おめでとう〜!」と言われることは皆無だった。

相手とのもつれた関係や、
歪んだ愛の元に身ごもった命に対して

中絶できる月齢の直前まで、

わたしは何度か本気で

「産まない」選択についても考えた。

不安と相手との関係への絶望が頂点に達したとき

夜遅い時間、
母に泣きながらその恐怖を訴えた。

いまここで生きている
かけがえのない命を思うと、

そのときのことを思い出すだけでぞっと震えて涙がにじむ。

あれほど相手に怒りを表し
二度と関わるんじゃ無いよと言った母だったが、

「そんな最低な男との子供なんか、堕したらいい」

とは言わなかった。

法律で堕胎できる
妊娠11週目の最後のギリギリの週に

怯えながらそれを
打ち明けた時

母はこう言った。

「生まれたら、絶対可愛いと思うよ」

その夜、母の横で

母からの優しい言葉で

母になるための、
全ての覚悟が決まった。

彼女に

どこまでも、
感謝している。

孤独のなかで自分を見失わぬように
ひとり、歩んでいたとき

愛知県の岡崎にある
自然出産で全国的にも有名な吉村医院に検診にいった。

わたしはすでに近所の産婦人科で
なんども定期検診を受けていたが、

どの病院でも出産をする心づもりが決まらなかった。

どこで、子供を産み落としたらいいのか
わたしはそこでも

道に迷っていた。

吉村では元々の先生が引退したばかりで

出産の受け入れをかなり限定していた頃だった。

検診は、本来そこで産む予定のひとのみ
受けつけていると言われたが、

一度断られたにもかかわらず

もう一度電話をかけ、

「どうしても」と無理をいって

なんとか検診だけを受け付けてもらうことになった。

高速で車を走らせて、そこに到着すると

細い道の坂をあがったすぐのところに
古びた外観の、昔ながら小さな病院が見えた。

ずっと昔からそこにあるような建物は
びっしりと、なんの葉かは全然わからない
緑のツルで覆われていて

わたしはそれまでいくつか転々と通ってきた
清潔で新しく、小綺麗な、ピンク色とか花柄の壁紙の

産婦人科とは

まったく別の世界に迷い込んだような気持ちになった。

建物に入って診察室に案内されると、
それはますます本格的になった。

いつもの、白衣を来たお医者さんではなく

髪をぴたりとまとめて
和服を着ている女性が出てきて、

静かに、

わたしをじっと見た。

わたしのつたない話をきいて、

彼女は、とても小さな声で

 


 

続きは、こちらからどうぞ。。。

 

https://note.mu/ephias/n/n1b67ab3082b8

 

 

 

 


女神イベント告知。

 

< 定員 >  10名 

< 場所 > 名古屋キッチンスタジオ Cocina(オリヴィノ・ラ・コシナ) 
高岳駅 から徒歩6分(名古屋駅から桜通線、乗車7分) 

< 参加費 >   ¥ 6900 (税抜)
ピーナツバターのお持ち帰りご希望の方は +  ¥ 500 

詳細・お申し込みはこちらから
 

お申し込みお待ちしています。

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