絶望要塞_備忘録

「誕生日」をめぐる、痛み

それがどこからきているのかを知るのに、その日に向けて
シラミ潰しのような日々を送る。

 

 

 

 

1年前の誕生日にわたしは失恋をした。
今年と負けじ劣らずの惨めさであった。

 

そのときはまだ、このような仕事をしてから初めての誕生日であったので

そこで何が起こっていたのかは、

もう少し浅いレベルでしか把握できなかった。

 

まだ感情の解放がメインで取り組んでいた頃であり、私は怖れに満ちていた。
今よりももっと3次元的な場所で生きていた。

それはそれで経験から必要なことは拾い、

そのうち私は空っぽになった日々にもう一度丁寧に

愛と優しさを詰めて前に進んだ。

 

当時は、全力で「信じる」一点張りに何の迷いも無かった頃だ。

別れた恋人についても、最初から早く別れたほうがよろしいと宇宙に言われており、

失恋の痛手は負ったものの起こる出来事の意味は
ほとんど自分にとって

「意味あるもの」であり、

 

それは今から思えば幸せなことであった。

 

 

白か黒かはっきりさせるのは実際は最も楽な方法である。

めんどうなのは、グレーの中でピンポイントの場所を探し当てた上で
そこに上手く乗ることなのだ。

 

わたしは今好きになったひとに関して、

宇宙は一度も否定もしなければ肯定もしなかった。

 

”そのままずっと好きでいていいんだよ” と言われ続け、それはつまり

3次元的に「付き合う」とか「別れる」の概念が存在しないことを意味する。

 

わたしはグレーの中に放り込まれたのち、溺れ続けた。

 

 

 

 

 

 

 

 

1月の雪の浄化祭を皮切りに、雪の浄化祭 Stuck①

ありとあらゆる周辺の記憶を片っ端から癒しにかかったが、

なぜか終わりが来なかった。

 

不思議なくらいに次から次へとそれは現れ、

ひとつ潰してはまた前世に戻り、
ひとつ潰してはまたも前世に戻りを繰り返した。

 

「信じる」ことについてのつまづきもそうだし、
「無力感」であったりとか、「受け取り拒否」について

複数のテーマは一斉に押し寄せていたが、

 

それにしても通常だと

ひとつづつ片付けていくごとに、

もうすこし縺れた部分は見えるはずだった。

 

 

 

 

浮かび上がったテーマに対して

格闘するという言葉が当てまらなぬほど、
わたしは真摯に抵抗を手放していた。

 

流れている感覚も、同じところに止まっているのではなく
確実にどこかに向かっている感はあったものの

次に何がやってくるのかが見えない、

 

それは尋常じゃないほど心もとない闇そのものであった。

 

 

 

 

 

閉じ込められた空白の数日から日々に戻ったわたしは、(参照どこに還る

ほとんど生きる気力を失った状態で毎日を

”送る”のではなく、呆然と”見送っ”た。

 

 

2月末にやってくる誕生日に向けて
何かとてつもない恐怖を抱いていることだけはわかったが、

それは自分の考えうる域を超えていた。

 

 

”約束を守ってもらえない”ことに対してであったり、

”彼との関係が終わってしまう恐怖”とか、”裏切り”であるとか

はたまた物質に対する執着(この場合、欲しかった指輪)、

彼を失ってしまう恐怖、信頼というキーワード、

自分を否定されたり、自分に価値がないと結びつけてしまうパターン など

 

片っ端から洗いざらい検証したが、

全て潰した後も真実は見えてこなかった。

 

 

 

「無視された」と逆恨みゴッコで彼に当たり散らし、

怒ったり恨んだりすることは単なる人間遊びであり

実際はその人が自分のことを愛していることはよく知っていた。

 

一切口を閉じて連絡が無くなっても、物理的なやりとりではなく
本来の繋がりがある限り、愛し合うことは十分に可能で

わたしもまた、その人に対してブレない愛が育っている感覚もあり、

そこには苦しむ理由がそもそも見当たらなかった。

 

 

そしてそれは同時に、

誕生日に一緒に過ごすこと自体が
重要なのではないことももちろんわかっていた。

 

 

 

 

 

 

 

すでに入っているセッションの予約をこなしながら
2月半ばの2週間後にはセミナーを控えていた。

 

 

わたしは自分の”無力感”から始まったそのとてつもない虚しさの中で

何とかしてやるべきことをこなすために、

自分が動いている”目的”のようなものを探していた。

 

正確に言うと、それは「仕事をこなすため」ではなく、

自分がとりあえず「存在」し続けるために

何でもいいからやらなければいけない、といった感覚であった。

 

 

 

 

それは「書く」ことで誰かの心に響くことであったり、

誰かが私に触れることで癒されていくセッションでも何でも良かったが、

 

 

 

例えば自己実現をしたいとか、自分を全うしたいとか、

本来の能力を発揮するとか、やりたいことをやってお金を稼ぐとか、

人の役に立ちたい、

 

というような通常の意図とはかけ離れていた。

 

 

死への恐怖がそこにあったわけでも何でもないが、

ただわたしは消えてなくなる寸前であることだけは認識しており

 

 

なんというか、原始的と呼ぶのか説明がしづらいが、

 

ともかく「根本的」な部分に差し掛かっていた。

 

 

 

「生きなければ」「生きる気力を取り戻さなければ」という目的も

もちろんそこには無かった。

 

 

ただ、

生きることも自分にとって必要がなくなり、
そして死ぬこともまた自分にとって意味はなく、

 

 

わたしにはやることがなかった。

 

 

人から求められて、それが嬉しかった時期ももちろんあり、
応えたいと全力を尽くした時期があり、

挫折したり苦悩しながら乗り越えた時期があり、

絶望しながら取り組んだ時期もある。

 

 

そしてその時も、もちろん人から必要とされていることは

知っていたが、

 

なんというか

自分とそれが、一向に繋がらなかった。

 

 

感覚が麻痺しているとも言い難い、
内に妙な静けさはいつもあり、

 

そして苦しかった。

 

苦しく、それは今までの癒されていない「感情」ともまた違う、

 

 

わたしは何かがおこるのを待っていた。

 

 

 

 

 

 

 

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