人を信じられないセラピスト②

 

 

わたしが怒りを抱え始めたのは、

ひとを信じられなくなった頃だったと思う。

 

それは1月末の浄化祭よりももっと前から始まっていた。

 

 

 

「誰のことも信じてはいけない」と言った先生に対してもだし、

実際どこか深い部分ではそれを理解しているが
まだしっかり腑に落ちきっていない自分に対してもだし、

 

「永遠」を裏切ったように思えた恋人に対してもだし、

なによりも、延々と出口を見つけられないまま

中途半端にひとと関わらなければいけない状況に、

そんな自分自身に、ほとんどわたしは絶望し、疲れ果てていた。

 

 

 

年が明けて、スタッフの特性についてみんなで話し合う中で、

自分の「女神」としての性質やその他の部分なども具体的に言葉にしてもらった。

数秘を通してたくさんの気づきがあり、
いよいよ「自分は女神なのだ」と自覚していくような、そんなプロセス。

わたしは自分のなかの女神がどんどん目を覚ませば覚ますほど、
人間としての自分が置き去りにされるような感覚に度々陥った。

 

それは単に統合していけば済むのだが、口で言うほど簡単ではない。

「女神」はただのブランドづくりのためのタイトルであれば、
商業的に使えば問題はないが、

私の場合は「本当の意味」での「女神」になろうとしていた。

 

”行政書士になるための30のステップ”

または、
”貯金がなくても一からバーを開く近道” みたいな説明書は

アマゾンで探して参考にできるかもしれないが、

なんとなく「女神」になる方法というのは、自分で見つけるしかなさそうな気がした。

 

通常のセッション業務やスタッフ間のやりとりの脇で、

うまく運ばないパートナーシップを通して見えてくる、これ以上ないほど剥き出しの惨めな自分。

 

ぼんやりと見つめながら、刻々と起こっている変化を追った。

それはとても、言葉にできないほど抽象的で、
わたしはしばらくの間、ひたすら追うことに集中することしかできなかった。

 

 

そもそも最初から、ものごとの本質や「真実」について

”言葉”で語ることには常に限界がある。

 

 

わたしにとってそれはひとつの挑戦であり

”言葉”にすればするほど、矛盾に満ちていくことにもどかしさを感じながらも、

何かを拾うたびにそれを書き記すことを淡々と続けていた。

 

 

次第にそれは、つねに相反することが含まれるようになっていく。

究極は「陰」と「陽」の話にしかぶちあたらない。

 

幸せを追いかけることを語ろうとすれば、自然と不幸についての話になり、

不変や永遠について証明したかったら、”常に物事は移ろっている”無常について
語らなければいけなくなった。

 

それは自分にとって、すでにある「感覚」なので
難しいことはひとつもなかったが、

説明しようとしたときに、どこまでそれが伝わっているのかはいつも疑問であった。

 

実用的な、感情解放の具体的なメソッドを書き記すことはいつかは楽しかったし、

自分にも読んでいる人にとってもとても役に立つ情報であったが、

自分が進むにつれて、自分が居る場所についてを

どの程度どんな形で人に分け与えていっていいのかがどんどんわからなくなった。

 

使う言葉はどんどん、より大きく含むことのできる詩的になっていったし、

それでしか表現しようがないことも多々あった。

 

 

 

わたしは自分がどんどんひとりになっていくようで、

セッションのときに、例の大阪セミナーでの停滞していたクライアントさんに
繰り返し説明してもどうしても理解ができないということが起こったとき、

いよいよ途方に暮れて、自分にできることはないと感じるようになっていった。

 

順を追って説明しても、例えば「感謝」とは何かというのは

説明してあたまでわかることではない。

 

 

 

その後も、そもそも「愛」とは何なのか。「思いやり」とは何を指すのか。

「優しさ」が意味することは、と考察する時間は続いた。

 

しばらくの間、「祝福」について深く考えていたが、

やはり言葉でそれを的確に表すことは難しかった。

 

辞書を引いても、「喜ぶきもち」と書いてあるが、

それでは果たして、「喜ぶ」とはどんないかなることなのか。
そしてひとつの、わたしが辿り着いた小さな一点は、

「わたしは正真正銘の嘘つきである」といった諦めのようなところであった。

 

参照 嘘つき

 

それについて記事を上げた時は、実際自分に失望していたとか自分に自信をなくしたとか、

否定感があったわけではなく

ただ「言葉にすると何もかもが嘘である」ということをそのまま伝えたかった。

 

 

そこには静かな受容があり、ある意味祝福と赦しを込めて、

すべてのひとに対して

「あなたは嘘つきです」「それでいいのです」と言いたかった。

 

 

間違っても、人を騙してもいいのだとか
不誠実であっても問題ないのだと言いたかったわけではない。

 

誠実にものごとにまっすぐ深く、降りていったときに見える、

答えの曖昧さ。

 

 

そんな真実を、わたしは愛を込めて「嘘つき」と表現した。

 

 

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