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淡々としごとをするのがよろしい。

 

それが丁寧にあるということであり

丁寧にものごとと向き合うということである。

 

 

 

常々自分に言い聞かせていることはある。

 

 

 

 

最初わたしは自分のために書いていた。

 

書くことがひとに認めらたとき、私は驕り、書くことと自分の価値を結びつけた。

 

 

つまり書けなくなった自分には価値がないという公式の出来上がり。

 

 

 

 

約一年かけてそれを抜く作業でもあったのかもしれないとすれば
そろそろいいのではないか。

 

しがみついていた執着を一個一個

時間をかけて、自然に剥がれ落ちるのを見送ってゆく。

 

 

 

執着もまた、「なにもしない最強」が当てはまる。

 

 

執着を取り除こうと躍起になるところに”執着”すればするほど、
その執着は強化される。

 

一番いいのは、

「執着」あるなあ。

 

とそっとしておくことだ。

 

 

時が来れば劣化した執着は
勝手にごそっとどこかへ落ちてゆく。

 

 

それは拾わなくてよろしい。

暇なら穴掘って埋めてあげなさい。

 

土に還して地球環境に貢献するのだよ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

わたしは好きなひとを貶すのが好きである。

というか、嫌いな人には至極、むしろ優しいとおもうし
貶すという面倒なことをいちいちすることはしない。

時間もエネルギーも無駄だし、

本当に頭の悪い人間に、”頭が悪い”とは言わないのである。

 

ものすごく頭のいいひとにたいして、”頭が悪い”と使うことが
面白いのであって、この自分のなかにあるユーモアは

 

時々本当に理解されずに、今でもぶつかることがあるし、
戸惑う。

 

こないだはそれでスタッフと喧嘩した。

 

やさぐれて、もうどうにでもなれと自暴自棄のまま
その場で投稿を消し、謝ったが

 

 

 

 

そのあとでまたも死にたくなって、絶望的にめんどくさい感じがした。

 

どうしてこういうことが起こり続けるのだろうと考えながら

 

 

次は「消してくれ」と言われても

わかったわかったと適当に言ってそのままにしてみるのはどうか

 

という新たな選択肢が浮上した。

 

 

 

 

 

それは今までにない感じで新しかったが、
なんだか悪くはない気がした。

 

そのスタッフは二度と仕事を手伝ってくれないかもしれないが、
なんだかそれでもようやく

 

 

自分に選択権を戻してあげようという気もちになってきたのは事実だ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

ある日スタッフの一人に「ダサい」と言ったところ、大喜びであった。

ハーフで英語ペラペラなのに、どうにもこうにも垢抜けないそのギャップが

たまらなく可愛く、「ださい・・・」

とつい漏れてしまったのである。

 

 

相手は喜んでいたので、その「ダサい」は成立した。

 

 

 

別のスタッフの一人に、心からの愛をこめて
「ダサい」といったところ、

「それは挑発ですか」

「宣戦布告ですか」 と返ってきた。

 

わたしはきゃっきゃ喜んでいたが、本気と書いてマジだったようで、
わたしは平謝りした。

 

 

相手は不愉快だったので、その「ダサい」は成立しなかった。

 

 

 

 

 

言葉というのはだから難しいのである。

 

ひとつの言葉にいろいろな意味が含まれている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

”書いて誰かが自分のそばからいなくなる”

という恐怖は、私のなかにある妄想である。

 

その自分の元から去っていく人というのは

書こうが書かまいが、時が来ればわたしのもとから去っていく。

 

 

 

わたしはこういう性分なため、

あれこれ指示されたり自由を奪われるのが大嫌いである。

 

そしてそれは、”言葉の遣いかた”に過敏に現れる。

 

 

自分の書いたものをよりよくしてくれる、
世界をより素敵に彩ってくれる本当に貴重な存在数名に

現在しごとを手伝っていただいているが、

それは自分の言葉の使い方を制限されることではない。

 

 

 

親しくなった人のことを書いたときに

 

「ここはこういう言い方にしてくれ」

「これは書いてもいいがこれは書かないでくれ」

 

と言われることは今まで度々あった。

 

 

最後にはもう、

がんじがらめになった感じがして

 

わたしは何もかもを諦めることしかできなかった。

 

 

 

別にその人が悪かったわけでもなんでもないが、
そして

見る人がみると、そんな些細なこと、
一語書き換えたり一語消したりすることで終わるじゃないか

と思われるかもしれないが、

 

わたしにとってそれは
チャーハンに紛れ込んだグリーンピースを2、3粒拾って出すのとは

おそらくわけが違うのだろうと思う。

 

 

先ほど書いた、名前のはなしと同じように

譲れるとか譲れないとかいう話でもなく

 

”違う”のだ。

 

 

ABCDEF と出てきたものの、

ABCEFと書いてくれと頼まれるなら

 

それは消さざるを得ない感じがする。

 

 

少なくとも今は。

 

 

 

 

 

 

 

 

コースのタイトルにLIFEというのがあって、

これはLife ではなく LIFEである。

 

理由は「なんとなく」である。

 

 

neneのドメインが取れないのでどうするかといったときに
nene2016でもephiasneneでもなんでもいいかというと、

そうじゃないのと同じで

めんどくさいし時間もかかるがいたしかたない。

 

 

ぴたりとはまるときは、

必ずひとつの正解にたどり着いて

 

美しくなる。

 

 

 

 

 

 

 

 

言葉は、それに対してわたしたちが共通認識として抱いている
イメージの交換なので

そこに”非共通”が生まれたときは

機能しなくなる。

 

言葉は通じなくなるどころか、
誤解を招くこともあるが

 

それも踏まえて使う潔さとか勇気のようなものも

ある意味必要だったり、

 

共通の感性で読んでくれるひとだけに向けるか

またはオブラートに包んで

中途半端な言い回しに徹するかのどちらか。

 

 

 

ただの選択だ。

 

 

 

 

 

 

 

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