一杯のスープというご馳走

 

 

 

季節が入れ替わり、まずわたしが始めることは

スープを作ることだ。

 
わたしにとってのご馳走は、シモフリとかフォアグラではなく

自分でこしらえた

一杯の野菜のスープ。

 

 
夏のご馳走は、果物だけで作ったスムージーだったり

庭でちぎってきたレタスとかトマトを常温でお皿に盛って

レモンとオリーブオイルと塩をかけただけ

とか

オーブンから上がったばかりの

スコーンであったり

上質な一杯の紅茶であったり
そういうもの。

 

 
わたしは昔から料理が好きだが、凝ったオシャレなプレートには興味がなかった。

 

手間のかかるごはんは確かに美味しいので

お店で食べて幸せを享受することはあるが

何年かニューヨークの食文化の中揉まれた間も、
自分が学びたいと思うものはとても素朴なものばかりだった。

 

スープとか

サラダとか、そういうものは特に日本において非常に脇役的な存在であるため、

おまけとしてついてくるだけでヤル気のない場合が多い。

 
シンプルで、なんでもない一杯のスープにこそ

本当はどこまでも愛情を注ぐべきなのに。

 

 

 

365日飽きないバリエーションのスープやサラダなど本当は無限にある。

わたしはそういうものを突き詰めるのが好きであった。
冬場オーガニックファームに滞在していた時、
わたしの仕事はスープをこしらえることであった。

 

 

アメリカで冬場定番の、キャロットジンジャーという

にんじんで作ったシンプル中のシンプルなスープから

豆やらいろんな野菜を組み合わせたものから

優しさの詰まったポタージュは

Vitamixからロボクープまで全ての道具で試して、舌触りをその都度かえた。

 

 

みそ汁じゃないけどミソスープという名のスープやら
とにかく色々だが、

にんじんが食べられない子供や野菜の嫌いなピーナツバター星人が、

 

「なぜかマイの作ったスープだけは食べられる」

と言っていた。

 

 

 

毎月のように出張でホテルに泊まるようになり、
度々ご馳走と呼ばれる食事にありつくようになったわたしだが、

 

根本的な好きなものは、全く変わらない。
一回の食事に一万円以上かかるお店で食事することは

楽しいし、それがやろうと思えば自由にできるようになったことが嬉しいが、

一杯の美味しいスープというご馳走にかなうものはない。

 
体調の悪い時に

お母さんが作ってくれる、うどんとか。

 

 

自分で作った飯が、なんだかんだで一番美味しい。

 

 

料理は、毎日の生活のなかに

主張なく、馴染んで、無理なく継続可能で

代替えがきくように素朴でなければいけない。

 

そして同時に洗練されていること。

 

地味でつまらない存在にならずして、よく見ると煌々と輝いているのに

ぱっと見は静かで佇まいが美しいミニマムさ。

 
生きる上で、忙しい合間に必ずやらなくてはいけないこと、それは

「食べる」ことだ。

 

 
そこに無理があってはいけないから、

今日もわたしは一杯のスープを作るのである。

 

 

 

 

 

ちなみに、お祝いで使うような高級レストランで
わたしがいい店かどうか判断する基準は、

パンと、水が美味しいかどうかと、

 

一番最後に出される紅茶が、

 

 

温度やカップのチョイスも含めて良質で美味しいかどうか
である。

 
意外にも、料理は一流なのに

 

紅茶の味がわかる人間がいない店は、多い。

 

 

 

 

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