愛は地球を救う

img_7983

 

 

 

 

 

生まれて初めてちゃんと24時間テレビというものを見た。

 

テレビを所有していないわたしは

祖母の家と実家で一日中、

テレビにかじりついて一日中、黙って涙を流し続けた。

 

 

 

「愛は地球を救う。」

 

このテレビに、

 

 

「泣いて笑って感動する」人々、

 

「下らない」と興味すら示さない人々、

番宣を見ただけで「虫酸の走る」人々、

 

いろいろだろう。

 

 

 

わたしはそして、自分が解放される前
癒される前、

 

間違いなく後者二つに属していた。

 

 

 

「愛」という言葉を昔からわたしは使っていたが、

それはとても薄っぺらく表面的なものだった。

 

「愛を込めて」という文句を昔からわたしは使っていたが、

それは単なる飾りであった。

 

 

 

自分の掲げるエゴに塗れた「愛」が

たくさんのひとを傷つけたことを本当の意味で理解したのは

たった一年前のこと、

 

そう、24時間テレビがやるような

そんな時期だった。

 

 

 

 

 

わたしは、感動することや

なにか本当に大切なものというのは、

 

すごく特別なことに宿っていると

 

長い間そう思ってきた。

 

 

だから、「家族」とか「24時間テレビ」とか

「歌謡曲」とか「マラソン」とか「感動」とか

「アイドル」とか「祭り」みたいな

 

テレビのスイッチを入れると

そこらじゅうに溢れ狂っているものから

何か拾うことは一度もなく、むしろ毛嫌いした。

 

 

ながらくもっとも嫌いな言葉は、

「偽善」であった。

 

 

それは本当に長い間、自分のなかにあって

 

ニューヨークで敬虔なクリスチャンの友人が

子供や旦那のことを「愛してる」「愛してる」と言いながら
にこやかな家族写真を撮るかたわらで

中国人や韓国人の悪口を、ものすごく遠回しな言い方で

上品にオブラートに包んで見下しているのをみて

 

それこそ虫酸が走る思いを抱えていた。

 

ネガティブなエネルギーの塊のようなおばちゃんが、
無料の英会話レッスンを爽やかに提供して

キリストのなんとやらを謳ってくる話の
節々に散らばる盲目的な思い込みを垣間見るたびに、

 

 

「嫌いな言葉ー偽善」

という感覚はわたしのなかにどんどん強化されていった。

 

 

 

わたしはこじれていたし、ゆがんでいたが
基本的には純粋な動物であった。

 

 

ラジオの放送局とテレビの放送局で働いていた経験から、

メディアがどのくらい嘘で塗りたくられているのかは

よく知っていた。

 

 

単なる作り込まれたエンターテイメントにも
偽物の「感動ストーリー」にも

映画や小説の世界にも、

 

一切興味がなかった。

 

 

それよりももっと自分自身が
感動するリアルな体験をしていくことで

わたしは磨かれていると錯覚していったのだった。

 

 

 

 

 

 

わたしは興味の範囲がとても偏っており、
一般的に人々が好きなアクティビティに対して

一体全体何が面白いのかがわからないことはよくあったが、

 

それはひとつの

「自分が特別でありたい」という無自覚の優越感も
大いに混じっていたことは次第に明るみになっていく。

 

 

興味がゼロだったもののひとつに、

スポーツなどがあった。

 

 

野球観戦はおろか、スポーツを応援しにいくという
意味がわからなかった。

ほんとうにそんな時間は自分にはないと信じていたのだ。

 

 

学生時代、フォトグラファーの仕事をしていた時期に
写真館から市内のスポーツ大会のスナップを依頼されて

カメラをぶらさげて体育館に赴いたことがあった。

 

 

柔道の試合場のわきで低い姿勢でカメラを構えて、

目の前で真剣に二人が組み合う姿と

人間の身体の美しさと自分にとって未知のその
可能性のようなものと、溢れる熱気に

 

わたしの深いところは一瞬で震えた。

 

 

でもそのとき”スポーツに興味がなかった”わたしには、

自分のなかに何が起こったのかはわからなかった。

 

その場所のエネルギーに圧倒されて

ただ、

 

静かに「感動」して、

 

「柔道をやりたい」と思った(単純)のをよく覚えている。

 

 

 

 

 

ひとによって、琴線に触れる場所はいろいろ違うだろう

 

映画を見て感動するひともいれば

スポーツを見て感動するひともいれば

わたしのように

 

目の前の人間の奥深さに触れて

毎日感動しているひともいる

 

 

 

8月に帰省した妹が、

わたしが食い入るようにオリンピックを見ている様子をみて

 

「お姉ちゃんそんなの、見るひとだったんだね」

 

といった。

 

 

 

ながらく外国に住み、日本の文化という文化に
ほとんど触れることなく過ごした20代

 

 

テレビにも芸能人にもスポーツにも一切興味がなかった

わたしだが、なぜかフィギュアスケートの選手とか

アスリートに無条件に惹かれることはあった。

 

 

季節になると、

「まおちゃんまおちゃん」と私は口にしていたが、

そんな自分に気づいていなかった。

 

 

 

わたしは「日本」とか「普通」にずっと、

抵抗をし続けてきたのだ。

 

 

 

 

雪が融け

わたしは日本で暮らし始め

「普通であること」を生まれて初めて好むようになった

 

 

みんなと同じようにテレビをみて

みんなと同じように日本を応援して

自分のアイデンティティは、根っこのところへ戻った。

 

 

傷ついた第一チャクラが癒され

「帰属」への安心感と、大地に根付く感覚を

生まれて初めて味わう日々。

 

 

 

 

つぎつぎと登場する、ガンと闘う少女、

若くして亡くなった天才作曲家

目の見えない少年、腕を失った高校生の水泳

親と子の絆、命の尊さ。

 

 

 

自分でもびっくりするくらいにストレートに反応して、

生まれ持った使命を全うするために

「今この瞬間」を死ぬ気で生きている

すべての素晴らしい存在たちに
それを支える家族の愛に

 

 

涙は溢れて

ずっととまらなかった。

 

 

 

ひとが、誰かのために、何かを伝えるために

難しいことに挑戦する勇気にこころを揺さぶられる。

 

一丸となって取り組む学生の合唱ひとつに、

その日までに練習を重ねた姿を想い感動した。

 

小さな命が病室で与えられた身体のなかで

一生懸命生きようとしている姿に、泣く。

 

 

朝からふさぎこんでいた小さな自分に
覆いかぶさっていたモヤモヤの奥から

ぱちん、ぱちんと

どんどん音をたてて何かが弾けていくように

 

その実際のドラマは

わたしの奥底にたくさんのリフレクションを起こしていった。

 

 

 

 

いのちの重み

「今を生きる」尊さ

自分の全てをそこに投じる生き方

 

 

そこにいる人たちは、

偽善でもなんでもなく、

 

真実そのものであった。

 

 

そこには純粋すぎるほどの愛があり

使命を全うするという高尚な目的があり

シンプルな、

「命」の重みがある。

 

 

 

わたしの追いかける、

「本質」

 

 

それはもう

「偽善」という言葉を自分の辞書から消していいほど

 

言葉にならぬ、ほんもののギフトで

わたしたちに大切なことを気づかせる。

 

 

 

そしてそれは、

 

わたしが世界中を回っても見つけられなかった、

夏の終わりの世俗的テレビ番組のなかに

あったのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

わたしはそして今、

「愛」という言葉を軽々しく使わなくなって

 

飾りで載せるのではなく

ちゃんと自分が「愛」を込められるときだけ載せ、

 

そして大切な人にも、

 

特別なときしか

使わないようになった。

 

 

 

 

 

よくしらないが、テレビの毎年テーマは違うのかもしれない。

番組名の横に、「愛」と掲げてあって

食い入るようにそれについて想い、

 

そして番組が終わったときに

 

 

 

「あなたと、あなたの大切な人に
溢れる愛が降り注ぎますように。」

みたいな文字が流れたとき

 

 

 

「愛は地球を救う」と

わたしはそう思った。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

この世で真剣に「今」を生き抜いている
全ての存在と

 

人間として生まれ落ちた運命の上で

確かな軌跡を残そうとしている全ての存在に

 

これ以上ないほどの尊敬と畏敬の念と
言葉にならぬ感謝のきもちとともに

深い崇拝をここに記しておく。

 

 

 

生まれてきてよかったと

心から思う1日。

 

 

愛そう。

 

これからも。

 

 

 

Commentする

投稿時メールアドレスは表示されません *は必須です