〜話すに払う〜値段設定

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朝起きて玄関をあけると、
ドアの外に、青森りんご。

 

再投稿

 


 

「感情を感じる」には
確かに痛みや苦しみを伴います。
わたしが解放するとき悶え苦しんだ様子

(以下抜粋)

今のまいちゃんはとてもストイックに自分と向き合っていて、それを包み隠すことなく自己開示していますが、彼女もまた最初の頃は感情を感じきるということが分かっていませんでした。

けれども、彼女の「変わりたい!!」という決意は凄まじく、一緒に解放しまくった一ヵ月は本当に濃厚で、そしてまた二人共途中で

「もうダメかも・・・」

という感じを味わいました。
でも、彼女はしっかりと自分と向き合うことを最後までやめず、どん底までたたき落とされてもちゃんと這い上がって来たのです。

誰も自分の醜さや汚さは見たくない。
だからこそ、途中で掘り下げるのをやめてしまって、良い人であり続けようとします。

 

 

 

「感じる」だけ

 

とさらり言い続けていますが、

 

それがいかに難しいのか。

それも、自分で実際にずっと体感してきている分
よくわかっています。

 

 

今でこそ、こうしたオエオエの波がやってきたときに
そのジトーっとした感覚を
ひたすら「感じる」ことはひとりでもできますが、

最初に大きいものを実際に解放したときに
わたしはサポートがなければ

あそこまで深い闇のなかに飛び込むことは
できなかったと思います。

 

わたしは、すでにセラピストの資格をとっていましたが、
もっと先輩のプロの助けを上手に利用して、

いまここまで来ています。

 

 

 


 

「こころ」を扱う仕事。

 

それは、一見、

「友達に相談」するその延長にあります。

「ひとの話を聞くだけで」
「友達とおしゃべりしているだけで」

お金がもらえる仕事。

 

楽そうでいいな、と思いますか?
わたしは、そう思っていたし、いまでも思っているし、
そして、やってみて、
はじめてわかる他のことを今ひしひしと
体感しているところです。

 

 

 

アメリカでは、毎週ジムに通う感覚で

「カウンセリング」に通い、
自分の「心」を調律する習慣が当たり前のようにありますが、

日本では違います。

 

「気づき」を得るために、「お金」を払う
習慣がないのです。

 

わたしはセラピストとしてお金を受け取るようになってから
ずっとそこの部分と、今でも向き合い続けています。

 

最初からクライアントとしてセッションやカウンセリングに
申し込みをされる方とは、関係を築くのは比較的楽です。

もともとそこに価値を見出し申し込まれ、

「対価」を払って自分が変わる「糧」を得る

というお互いの利害がしっかり成り立っているからです。

 

 

わたしがここ数か月でオエオエしながら
取り組んできたことは、

「友人」や「知人」といった

「もともとは話すことに金銭のやりとりが発生しなかった関係」において

自分はどうするか、といったことでした。

 

 

最初のうち、モニターを募集していたような時期には
たとえばセラピストの仲間同士でセッションをお互いに
やりあったり、お互いがお互いをサポートするという形をとります。

そして、友人であったら、話を聞き相手がすっきりしていく代わりに、

ご飯をご馳走になる、とかいった具合です。

 

 

わたしは、その後大きな感情解放を終えて間も無くして、
同じことを続けていたら、あるとき
初めて「自分の身が削られる感覚」を味わいました。

 

 

つまりは、物質的、実際の数字的な面ではなく

あくまでも「感覚的」にですが

 

自分の差し出したものと、相手から受け取ったものの
エネルギー的なボリュームが、
明らかに差が出てきていると感じ始めたのです。

 

 

平たくいえば、

「相手は私と話すことでどんどん気づきを得ていって
どんどん顔が明るくなっているけども、

わたしは今まで通り。
でも、時間は減っている。」

という感覚です。

 

それはやりがいのある楽しい瞬間ですし、
相手からこころからの感謝をされて、
しかも自分が「与えている」感覚は
同時に「わたしにできることがあるんだ!」という
「受け取っている」感覚でもあり、
学んでいく上で大切な経験をさせてもらうことです。

 

 

でも、その

「違和感」が湧き上がりはじめたその時が、

 

「自分の差し出したものに対して対価を得る」ことが

思考レベルを超えて

体感として 必要になった時でした。

 

 

最初に、セラピストとして資格をとったから、
「じゃあこの値段設定で」と

 

お金のやりとりをすることは

いまから思うと

 

あくまでも「思考」を通してやっていたこと。

 

 

次第に

 

「時間」と「お金」というエネルギーを

ものすごく「感覚的」に捉えられるようになってきます。

 

 

 

 

目に見える形の、特別なセッションには、
ひとは価値を見出しがちです。

 

 

たとえば私であれば、もともと
ヒプノセラピーをやっていたので、

「前世療法」というセッションには2万円払ってもいいけど、

 

「ただ、話すだけ」

に2万は・・・

 

といった具合です。

 

 

 

この感覚は、わたしも今のスタイルになってくるまで
自分のなかにも長らくありましたので、
すごくよくわかります。

 

でも、
自分があれこれ試してみて、そしてその

 

自分のエネルギーの消耗

時間

相手がどの程度変容または癒しを得るか

 

っていうのを模索していった結果、

 

報酬を得たときや自分の疲れ具合で
それがぴったりくるのか、高いのか、安いのか

が何となくわかるようになってきたというわけです。

 

 

そこには最初のうち、相当の抵抗が生じます。

 

 

「思考」は、「感覚」を無視して

「いやいやあんた、自分の経験値とかもっと考えろよ」
「相場を考えろよ」

 

と健気な「感覚」を叩きのめしてくるからです。

 

 

わたしが、これをオエオエしながら続けていくと、
そこでまた、「残る」ひとと「振るい落とされる」ひとが
出てきます。

 

あくまでも
「その方にとって、わたしという人間が
どの程度必要であって必要でないのか」という意味です。

 

 

 

続く

 

 

 

 

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