魂に沿う(セラピスト向け)

 

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プール帰りののどかな風景。

 

 

魂に沿う。

 

魂の声は、得てして厳しいものである。

あなた(の思考)がどれほど巧妙に自分から逃げようと、
あなたを不幸に陥れようと、

 

ありとあらゆる方法であなたを騙そうが

 

魂はそれに屈しないようにできている。

 

 

 

そこでの対立が大きければ大きいほど苦しみは増し、

そこで一見対立していないように見えても

なんとなくモヤモヤするのから目を背けていれば

 

 

魂は黙っちゃいない。

 

 

 

 

セラピスト向けのセッション”スリス”

 

ちなみに最近、

セラピスト向けのセッションに力を入れている中で

自分がどんどん手厳しくなっているなあ〜と思う。

 

 

自分のエゴが削がれていけばいくほど、

言葉を濁す必要がなくなるため、もともと直球型だったわたしのセッションだが

最近はそのあたりの迷いが消えて

(前は、まだちょっと強く言いすぎたかな〜と思うこともあった)

 

 

自分でも気持ちがいいほどに

スパッと斬っているのがわかる。後腐れゼロで。

 

 

 

クライアントさんは、わたしのいろいろな面を見るはずだ。

とてつもなく優しく暖かいときと、

背筋が凍りつくほどに厳しく冷たいとき。

水のように。ずっと私の中でのテーマ。

 

 

はっきりと突き放すことが増えた。

 

 

自分の得意を言語化したほうがいいと以前に言われたことがあって、

そのとき、自分を売り出すような文句は全然思い浮かばなかった。

 

 

でも今、

 

「本当に上がりたい、突き抜けたい」ひとに向けて

もっとも無駄なく引っ張り上げるために

 

多少の痛みを堪えてもらうような

そんなセッションの内容になっていると自分でも思う。

 

 

そういうやり方、あり方が
自分に向いてるな〜と感じながら

 

それが、ただひたすら楽しくて、
実際にもがきながら変化していくクライアントさんの

魂が嬉々としているのがわかって、幸せだ。

 

 

 

 

わたしがやっていることは、

「魂に沿う」こと、それだけ。

 

 

魂は基本的に成長したがる。

丸裸になりたがる。

本質で、いたがる。

 

 

それを邪魔しているのは、紛れもなくあなた(の思考)なのだ。

 

 

わたしがやることは、

魂の声を伝えることではない。

それはそれで意味がある時もあるが、

 

「自ら気づいたときの上がり方」と

「人から答えを得たときの上がり方」は

比ではないことをわたしは知っている。

 

 

 

はっきり聞こえている、見えているその様子を、

 

まず

 

「見つめてみなさい」から入り

 

自分でしっかりその答えを導き出すように誘導する。

 

 

だから質問されて、最初から答えることはあまりない。

 

「そう思う?」

「そう感じるなら、それでいいんじゃない?」

 

 

はっきり突き放す。

 

 

 

セッション再開

今日はしばらく停滞していたクライアントさんから

久々に再開だったので

 

一歩進む準備がいよいよ出来たかな〜と

ウキウキして臨んだが、

 

本来「知っている」はずの道から
大きく外れていることに、本人は気づいてすらいない様子だったので

 

かなり手厳しくした。
すでに人からお金をもらってセッションをやっている段階の彼女なので
容赦はしない。

 

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「上がって欲しい」「幸せになってほしい」「抜けてほしい」

「前に進んで欲しい」

 

に、以前は自分のエゴが混じったため、

そこにはかなり慎重であった。

 

 

「お好きなペースで」

わたしの常套句であった。

 

 

 

 

そして今、「上がって欲しい」「幸せになってほしい」「抜けてほしい」

「前に進んで欲しい」

 

は消えた。

 

 

 

わたしは、

 

「上がりたい」「幸せになりたい」「抜けたい」

「一歩前に、進みたい」

 

 

というその人の魂の声に、

ただそっと、寄り添うようになった。

 

結果、冒頭の

”魂の声は、得てして厳しいものである。”にたどり着く。

 

 

 

 

思考との勝負

 

私が魂についたそのとき、思考との激しいバトルとなる。

どちらも必死である。

 

クライアントさんが「わからない」「わからない」と理屈を並べ立て
不幸の理由を延々と説明し
思考でこちらに立ち向かって来る時
間髪入れずに畳み掛けることがある。

「違う」「そうじゃない」「目を覚ましなさい」

 

そこがもっともスリリングなパートで、

わたしもエネルギーは使う。

 

 

 

初めから聞く気がない段階

潜在意識がまだ拒んでいる段階では

わたしがどれだけ必要な情報を届けても、

それは届くことはまずない。

 

そういう時は、わたしは何もいわない。

わりとニコニコしている。それ以外で相手にとって必要なことを投げる。

 

 

 

聞く準備が整った時

 

潜在意識の準備が整った段階では、

わたしは厳しいことを言う必要はない。

優しく丁寧にわかりやすく言葉にのせて説明をすれば、

しっかりと相手は理解し

そして取り入れていくからだ。

 

 

これはこれで、とてもやりがいのある作業だ。

 

今日は「自分の心地よさを優先させることと思いやりのさじ加減」について質問がきた。

具体的なシチュエーションからしっかり説明をして、

そこにはっきりと「理解」が生まれる瞬間は

わたしにとっても相手にとっても、虹色の橋がかかったようになる。

 

 

 

そして、聞く準備が整う直前、
でも魂は激しく次へ行きたがっているときの狭間

 

が、

 

わたしが最も鋭くナイフを突き刺すときである。

その誤差を埋めるのに、

回りくどい説明を始めると時間ばかりが過ぎてゆく。

 

嫌なことから目を背けるのは最も楽である。

そこに留まりたければ一向に構わないし、わたしの知ったことではないし、

「楽」を選びたいひとはたぶん

そもそもわたしのセッションを受けには来ないだろう。

 

 

「楽」な世界はちゃんとある。

解放が進んだ先に、苦しみはちゃんとなくなる。

 

 

わたしが言っているのは、

まだまだ取り組むべき問題が横たわった状態で、

そこから目を背け「楽」に留ることについてである。

 

 

 

慣れていないクライアントさんの中では
わたしのセッションの直後
怒りが出たりも度々あるが、それもセッションのうちだ。

 

わたしは先程の記事にも書いた通り、

内臓に手を突っ込んでぐりぐり攪拌するのもしごとなのだ。

 

こちとら血なまぐさいったらありゃしないが、
最近はそれがやっぱり楽しくてルンルンしている。

自分のことを長らくドMだと思っていたが、ドSの気もはっきり自覚。

 

 

相手の段階に応じて、

依存させたり、自立を促したり、

 

 

いくつかのパターンの中で

わたしも学び続け、

 

少しづつ体系をなしていくのがわかる。

 

 

 

自分というひとを実験台に、
感情の解放から気づいて手放し思い込みの解除など

ひとつひとつ向き合ってきて

 

そして今、

それをクライアントさんたちの変化のなかで

復習しながらゆっくりと

わたしの「やり方」が洗練されてゆく。

そして同時に、わたしも引き続き、癒され成長を続けていく。

 

 

 

 

人間は、どこまでも面白く、

いつまでも、見ていて飽きない。

 

 

人が癒され、魂が成長していく様ほど

ドラマチックで感動する場面は

ほかにはないと思う。

 

 

 

この仕事をしていて、幸せだ。

最初からいまもずっと変わらず、

わたしは「ひと」を、愛している。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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