リフレクションー聖都

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螺旋階段を登る

 

 

みっちりセッションに取り組んできたクライアントさんが、

一段上に上がったことをきっかけに

それを見ている周りの人々の間では、
大きなリフレクションが起こる。

 

 

 


 

 

クライアントさんとの関わりであったり、
仕事を手伝ってくださる方々との関わり方、距離感のとりかたは

最初からいまもかわらずずっと学びが多い。

 

失敗もするし、

近くなったり遠くなったり、ラベルを貼られたり
それを剥がしたり、枠のなかに止まったり枠を外したり。

ゆっくりと、自分の立ち位置や役割を

確認しながら

たしかな足元の感覚を、確立してゆく。

 

 

 

 

わたしが長らく戸惑い続けたのは、

クライアントさんの中で私のことを特に慕ってくれる人々であった。

 

 

 

わたしを慕ってくれるがゆえに、

距離が近くなりすぎて、
本来

彼らが幸せになってゆく、魂の成長を続けていく、
自分を磨いていく

お手伝いをしたかった目的から外れて、

 

「松永まい」の近くにいられる

ということに溺れてしまうことが時々見受けられた。

 

 

 

セッションは、その方が望んで受けられるものであって

こちらから強要するものではないから、

そうやって

「関わっている」がゆえに、「セッション」ではないのに

わたしと話ができる環境のなかで

成長が止まる場合もある。

 

 

 

それとは別に、

「松永まい」を目指していますという罠にはまる場合。

 

 

わたしに憧れてもらうことは

こちらからすればとても光栄なことで畏れ多いことだが、

 

 

 

 

「まいさんに近づきたい」「まいさんのようになりたい」

「まいさんを目指してる」「まいさんと同じ位置に行きたい」

「対等になりたい」「まいさんと友達に」

 

 

という言葉が、いろんな場所から出てきたとき

わたしはすごく嬉しかったが、

「ありがとう」という以外になんと答えていいのかわからなかった。

 

 

 

 

クライアントさんはみんな大事で、

その方たちと全員わたしが対等に友達になったらどうなるか
いろんな着地点を探したが、

あまりそういう世界が想像がつかなくて、

でも自分がとりたてて特別ではないことももうわかっていて、

線の引き方がわからずに戸惑う時期がきた。

 

 

 

 


 

 

 

自分を安売りした結果、
本来自分が思っている価値に見合わない場合

うまくいかないことがある。

 

 

4月に値下げをしたのは

自信がなかったからとはまた別次元の話だったが、

 

とにかくなんとか自分を伝えるための方法として

セッションを一万円にしたが、
そこからいただく予約に対して私は常にモヤモヤがつきまとっていて、

結果まったくうまくはいかなかった。

 

 

それをついに吹っ切るきっかけになったのは
大阪で「値切られる」ような体験をして

ああああこれはイカんっっと

やっと気づいたわけだが、

 

そのタイミングでいよいよもう一度自分の「価値」を
金額として再設定しなければいけなくなった。

 

 

 

1万円のセッションは、一向に予約が埋まる気配はなく

ちらほら今までのクライアントさんが私の生活を支えてくれたが

ついにそれを止めて、

 

元々の3万円台に戻す覚悟を決めたタイミングで、

 

3万円のセッションの予約どころか、

約10万円のコースが5人同時に埋まった。

 

 

内容はもちろんさておき、
3000円台のお話会が埋まらなくても
10万円わたしに払ってもいいと思っているひとがいるということだ。

 

 

 

 

 

自分の価値というのは、計り知れないし、
こうして歩み続けて

それはいつまでたっても難しいけれど

でもその都度迷いながら、実際に行動に移しながら、
やっていくしかない。

 

 

 

 

そしてその、

金額の設定は、わたしにとって

<クライアントさんとの距離>とも密接に関わっていた。

 

 

 

手の届きやすい金額にすることで、
気軽に会えるような気安さを感じてほしい

といったところだったけれど、実際は
自分のなかにいろんな勘違いもあった。

 

 

そこで自分が身をすり減らしていては、
本来の良さも発揮されない。

 

 

 

そして、セッションの金額に関わらず
親しまれることは可能だし、
どんな立場からであっても、
わたしの届けたいものを届けることは

 

可能なのだということが

いまやっと、わかり始めたところだ。

 

 

 

 


 

 

 

「まいさんと早く同じ立場になって
対等になりたい」

と言われたときは、

 

 

「そんな時すぐに来るよ〜」

と答え、本当にそう思っていた。

 

 

 

誰もが正しいプロセスを登れば、

当然ながら上がる。

 

 

そこで見える景色は違うし、付き合う人は変わるし、
人間関係も物質的にも全てのクオリティは一段階上がるものだ。

 

 

そして、そんな風にみんなが
「上がる」ことをしっかり意識して、

前に進んでほしいと望んでいた。

 

そのスピードがたまたま早ければ、
わたしが追い越されることなど簡単である。

それは喜ばしいことだ。

 

 

 

 

だからわたしは、

「すぐだよ」と勇気を与えたかった。

 

 

クライアントさんの中では

 

私の後ろをぴったりついて駆け上がっていく人もいれば
一時急に上がったが今は休憩している人もいれば
ゆっくり自分のペースで前に進んでいる人

それぞれみんな違う。

 

 

 

誰かがすぐれているわけでもなく、

誰が才能があるわけでもなく、

 

 

そこだけは全てのひとに平等に、
『自分を生きる』『本質に戻る』

 

機会もチャンスも与えられている。

 

 

 

やるかやらないか、ペースは

個人差がある、それだけのことだ。

 

 

 

 

それからしばらくが経ち、

それぞれとのやりとりの中でいろんなことを感じて

 

 

わたしとの関係が「友達」なのか「友達じゃないのか」

そんなことにとらわれないで欲しい

ということを

伝えることになった。

 

 

 

 

それはそれは勇気がいった。
大好きなひとに、慕われているひとに

「あなたのことを友達だとは思っていない」

 

とわざわざ口にしなければいけない機会が、

この人生で何回くらいあることだろう。

 

 

 

 

「まいさんを目指している」と言われ、

 

「わたしを目指すのをいますぐ止めなさい」と

ばっさり斬り捨てた。

 

 

 

一番近くでアクアエスリスのために無償で
奉仕してくれているひとたちに、

 

 

「すいませんが今後は遠くのほうでブログを
読んでいるだけの読者のかたと、平等になります」

と伝えた。

 

毎回、勇気がいったが、

そこで背を向けるひとは、いなかった。

 

 

 

 

 

わたしに魅かれる理由はいろいろだ。

 

 

 

「なんとなく手が届きそう」

「同じ星からきた!」

「わたしにもなれる気がする」

「自分とたどってきている道が似ている」

「自分と星座も血液型も数秘も一緒」

「赤い糸!」

 

 

 

 

 

 

構やしないし、

 

 

すくなくとも皆が

 

「まいさんのように」と言っている時点で、

君たちは皆、似ている。

 

 

 

 

でも次第にはっきりと思うようになる。

 

 

 

「あなたが階段を上がった分、わたしも上がるよ。

ついてこれるかな」

 

 

「あなたがどうひっくり返ったところで、

松永まいにはなれない」

 

わたしはわたしだ。

あなたは、あなただ。

 

 

当たり前のように見えて、

誰もがそんなことをわかっているように見えて、

意外にも見落とされていることは多い。

 

 

 

 

あなたが

「松永まい」の中に、

 

「何を」「どんな要素を」見ているのか。

 

 

 

それは「松永まい」ではなく

「あなた」の中にある。

 

 

 

 

 

 

 

わたしは、アクアエスリスというこの場所も

エフィアスという泉も

決して他の誰にも譲るつもりはなく

わたしのものだと思っている。

 

 

 

それは以前まではエゴと傲慢さが混じる感覚であった。

だからこそ、開いて外に放ち、

全てのひとに分け与えたかった。

 

 

それは自分からの逃げでもあった。

 

 

 

でも一回りして、少し変わってきた。

 

 

 

自分のエゴが薄れ、確固たる自分の芯のようなものと

奢りの区別がつくようになってきた頃、

わたしは自然と
はっきりとした言葉を放つことに抵抗がなくなり、

 

 

そして冷たく切り離せば切り離すほど

「まいさんの愛に触れています」

という言葉をもらうようになる。

 

 

 

わたしは相変わらず優しくはない。

ビシバシまっすぐに直球の玉を投げる。

 

 

 

 

 

「松永まいではなく、あなた自身」をとにかく目指し、
追求してほしい。

 

 

 

 

 

わたしにできることは、

そのプロセスの加速のおてつだいだ。

 

 

 


 

 

 

リフレクションを各方面で見ていて

不安になるひとが出る。

 

わたしはまだ同じところに止まっている  

停滞している・・・

あの人は先に進んだのに自分はできていない     

 

 

 

 

そして、わたしと近しくなったり離れたりすることを見て

それぞれが、

嫉妬しあったり、羨んだり、いろいろなことを感じている。

 

 

 

 

 

それを遠くから見まもりながら、

 

それをみんなが「自分を知る」大切な機会として

ちゃんと受け止めていることに私は誇りを感じている。

 

むやみやたらと怒りを露わにしたり
ぶつけあったりする世界もある中で、素晴らしいと思う。

 

 

 

 

ひとの喧嘩に首を突っ込むほど

わたしは暇ではない。

 

 

が、

 

泉を訪れたひとたちの間で

いろいろなことが起こり

 

そして彼らがちゃんとしたプロセスをたどって

そこで上に上がっていくために

認め合うことであったり、許し合うことであったり、

異質なものを受け入れていくことに

 

向き合いたいのなら

 

喜んで仲裁に入ったり

話を聞くことになるだろう。

 

 

 

 

 

アクアエスリスでは、

もっとも泉に近しい場所を徘徊しようが

遠くの遠くの水源に、一滴触れるものであろが

 

決してぶれない「平等」さがそこに守られていること。

 

 

そして

 

人々が

「嫌いだからあっち行って」
「ここはわたしの場所」

 

と争うことがない

 

 

安心して、尊重しあえる、

または尊重するということを学ぶ場所として

 

「平和」な水都であることを約束する。

 

 

 

 

そこに共感できないものは、去りなさい。

 

出入り自由です。

いつでも泉はここにあります。

 

 

いくつもの世界がこの世には存在するから、あなたが
ここちいいと思える場所で、生きるのがよいし、

いつ戻ってこようがそれも自由だ。

 

 

 

 

 

 

ここは、

わたしがエフィアスの泉から水を流し続ける、

 

聖なる場所、

水都であり、

 

そして聖都である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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