「 」は、愛ですよ。③

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古い家には仏壇がある。松永のひいじいさんと木魚と俺。

 

 

 つづき

 


 

たおは、わたしの父と縁が深く生まれているらしい。

 

だから、私の中でたお=「松永」ではない。

 

 

 

 

祖父さんが生きていたころ、

わたしはその家が好きであった。祖父は、破天荒なひとで、
割と波乱万丈な人生を自由に生きたひとであった。

小さいころはわからなかったが、変わった人であった。

頭がよく、イケメンで、おしゃれであった。

 

 

 

 

そのあと祖父さんが死んで、祖母だけになったときから

わたしの足は遠のきはじめた。

 

 

 

祖母はわたしが学生の頃からイチイチ髪の色から
何から煩かったし、遊びに行くたびに小言のようなことを言われて

あまり好きではなかった。

 

 

 

 

わたしが松永の家に出入りするのを辞めたきっかけになったのは、

まぎれもなく

 

たおの妊娠である。

 

 

 

わたしが相手ともめていたことを親戚一同は知っていた。

結婚をせずに身ごもっていることも周知の事実であった。

 

母はそれを、実家に言わなかった。

 

 

 

周りは、「そんなこと知ったら保守的なおばあちゃんは

ショックで死ぬんじゃないか」

 

といったところで、誰もが様子を伺っていた。

 

 

 

それでも私の腹は日に日に出てきて、

とくに報告をしなければいけない義務はないが

 

いつかはわかることなので

わたしはタイミングを見て祖母の元へ行った。

 

 

 

 

 

わたしはまだ当時、セラピストを思い描いていたこもなく
感情を癒すということも知らず、

傷だらけで不安だらけであった。

 

ヒリヒリと、ギリギリのところで踏みとどまっている状態で、

なんとか生きていかなければと

色んな計画を頭のなかで思い描いていた。

 

 

 

わたしは叔母が一緒に住んでいる松永の家に赴き、

バンジーを飛ぶ勢いで

おそるおそる、

言うタイミングを伺った。

 

 

 


 

 

 

 

その時期、私は、お腹の命の尊さが、
手放しで祝福を受けられない状況にもどかしさと悲しさを感じていた。

 

本来生まれてくるものは、

かけがえのない喜びと愛に満ちたものであるはずだ。

 

でもわたしは、色んな状況もあって
周りから「おめでとう〜!」と言われることは無いに等しかった。

 

で書いたとおり、

中絶できる月齢の直前まで、

わたしは何度か本気で

「産まない」選択も考慮した。

 

 

不安と相手との関係への絶望が頂点に達したとき

母に泣きながらその恐怖を訴えた。

 

 

いまここで生きている立派な命を思うと、

そのときのことを思い出すだけでぞっと震えて涙がにじむ。

 

 

あれほど相手に怒りを表し
二度と関わるんじゃ無いよと言った母だったが、

 

「そんな最低な男の子供なんか堕しなさい」

とは言わなかった。

 

 

 

 

 

わたしは最後のギリギリの週に

震えながらそれを

打ち明けた時

 

 

 

母の横で

 

 

「生まれたら、絶対可愛いと思うよ」

 

と聞いた優しい言葉で、

 

全ての覚悟が決まった。

 

 

 

 

母に、どこまでも、
感謝している。

 

 

 

 


 

 

ひとりで孤独に自分を見失わぬように
歩んでいたときに

 

岡崎の吉村医院に無理をいって検診をお願いした。

 

 

 

和服をきた女性の先生が出てきて、

 

静かに、

わたしをみて、話をきいて、

 

 

「おめでとうございます」と言ってくれたとき

 

 

わたしは今までひとりでかかえていた

涙が溢れて止まらなくなった。

 

 

 

 

「祝福」をされるべき出来事だったことを

その時、やっと知ることができた。

 

 

 

すでに、妊娠7ヶ月目であった。

 

 

 

 

 


 

 

 

 

妊娠を知った祖母は、

 

結婚は決まっていないと聞いた祖母は、

目をぱちくりさせた。

 

 

 

 

高齢なので、

態度は柔らかいし言葉に悪意は一切ないが、

 

 

祖母はひとこと、

 

 

 

 

「それで、産むんか」

 

「結婚もしないのに」

 

 

 

と言った。

 

 

 

 

 

 

わたしは、瞬時に激しく動揺し、
怒りと憤りと涙の中で、

 

 

文字通り

 

 

「じゃあ殺せばいいね」

 

 

と言った。

 

 

 

 

 

 

そのあと何を話したかは覚えていない。

 

叔母がそこにいて

取り乱すわたしのかわりに

説明をし、

 

祖母が何を理解したのか私には計り知れないが、

とにかくひとつ、

肩の荷が降りて

 

最後帰るときには

 

「大事にせなあかんよ」

くらいなことを言っていた。

 

 

 

 

 

 

その後何度か、

 

叔母や従姉妹から

自分の歩みゆく道について諭されて

不愉快になったことも手伝って、

 

 

わたしは益々松永の家から足が遠のいていた。

 

 

 

 

 


 

 

 

 

 

ゆっくりと自分から、母から松永につながる感情が

昇華していくのには

 

何段階もプロセスを踏まねばいけなかった。

 

 

 

 

 

ひとつのきっかけは、

3姉妹が全員嫁にいって跡を継ぐ人間がいないという

 

後継者のもんだいであった。

 

 

 

わたしの母はいつかその話が出た時、

冗談ぽく

 

 

「あんた継げば?」

 

と私に言った。

 

 

 

 

わたしは、まだ海外を行き来していて
将来どうなるかもわからないような状況だったため

一つ返事で「イエス」とは言えなかったが、

 

頭にはずっとそれがよぎっていた。

 

 

 

 

 

古いお家の人間になれるという

 

ずっと思い描いていた憧れの状況が、いろいろなしがらみとともに

そこにはあった。

 

 

 

 

伴ってくる全ての責任を

そのまま請け負うほど、当時のわたしはまだ mature ではなかったし、

 

あるかもないかもわからないようなお金とか物質が目的だという

自分の不純さもはっきりと自覚していて、

 

その話は流れた。

 

 

 

 

詳しいことは知らないが、

 

すくなくとも祖父さんが死んだとき、

税金とか財産の整理をしていた中で

 

祖母名義の貯金だけで一億くらいあって

 

みんなが知らなかった事実に
「ばあちゃん意外に金持ちだな」と

驚いていた、

 

ということだけは母から聞いていた。

 

 

 

 

古い家だが、ただそれだけの話で、

そこには贅沢品などはひとつも見当たらなかった。

 

 

祖父母もまた、コツコツ節約をして
真面目に働いて、

 

貯めたお金といったところなのだろう。

 

 

 

 

 

 

わたしは、

自分とは関係の無い「松永」の家に

 

結構なまでに囚われつつ、

 

 

色んな意味で余裕のない自分の人生と生まれてくる子供に

明け暮れるだけで時間は過ぎ、

 

 

 

 

気づいたら、

長女でもなんでも無い従姉妹のひとりが、

 

家族丸ごと「松永家」に入ることが

 

決まった。

 

 

 

 

 

 

④へ続く

 

 

 

 

 

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