こころとことば

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えっと、英語の

Mind, Body and Spirit を訳すときに

実はちょっと難しいのだが、

 

わたしたち人間を

3つの構成要素にわけるとつまり、

 

Mind 思考

Body 身体(感情)

Spirit 魂

 

となる。

 

 

これが実は微妙なところで、

 

「感情」=「身体感覚」というところが理解できていないと

 

身体は物質的な「身体」で

「感情」=「こころ」となってしまう。

 

 

だけれども日本語の「こころ」というのはどちらかというと
「魂」的な意味合いが含まれていると思うので、

ますますややこしくなる。

 

 

わたしの好きな言い方で統一しておこう。

 

「思考」「感情」「魂」

といったところかな。

 

「こころ」にあたるのは、「感情」「魂」どちらでもいい。

ひとによって認識は違う。

 

 

 

 

 

ここまで書いて思うけれど、

テーマでもある「ことば」がいかに曖昧で

いかに人工的なものかと思い知らされる。

 

「軸」と呼ぶか「中心」と呼ぶかとか、

「闇」は存在しないとか、「影」と「闇」の違いとか

それこそが「人間的発想」とわたしは思っている。

 

だって本来「目に見えないもの」を

「ことば」にすること自体無理があるわけだし、

 

そこに持てる限りの注意を払うことくらいしか
わたしにできることはないと思っている。

 

受け取る側もまた、
「そのことば」が何を指しているのかに

最大限の注意を払うことだ。

 

 

というわけでわたしは

なんどもなんども、

「言葉には囚われるな」ということを

「言葉で伝える」方法を通して伝えようとしている。

 

 

なんともこの世は矛盾に満ち満ちていること。

わたしはそして、

そんな曖昧でどっちにもとれるような

「ことば」を使う遊びが好きだ。

 

 

 

 

 

「自由」には「責任」が伴うと、いったいどれくらいのひとが
それを深い部分で知っているだろうかとよく思う。

 

わたしは「自由度」で言ったら平均よりも

かなり水準が高い人生を歩んできたため、

それだけ「自分でかんがえて決める」ということをしてきたとは思う。

 

それでも未だにどっちつかずで苦しみ、
「正しさ」にとらわれて肩に力が入り、

 

 

ひとから「自分でそれを選択したなら文句言わないこと」と諭される、
知ったかぶりで理屈っぽい、

ふてくされる未熟者だ。

 

 

 

 

「こころ」は、みえないものだ。

それが「感情」であったとしても「魂」を指していたとしても

目にみえない、誰にとっても「掴む」ことが難しい、そんな存在。

 

わたしはそれを日々身近に扱っているわけで、

そんな形なきものをこよなく愛しているわけで、

 

これがこうして現実的に「職業」として機能したりする前は

ただの「無駄な作業」に没頭しているだけだと思い込んでいた。

 

部屋に閉じこもって鬱々悶々と哲学ごっこをしている娘を、

母は長い間心配したことだろう。

 

 

「そんなことをしていないで」

「実際の行動」に結びつける大切さを、

 

世の中はボリュームを最大にして
謳い続けている。

 

私は根暗なあなたの味方です。

 

 

 

 

 

というわけでわたしの場合は極端だが、

「目に見えないこと」にこそ「本質」が含まれており、

それに注意を向けることこそ、

わたしは大切なのだとそう信じて続けて今に至る。

 

 

だから結局、「無駄」だと思えるような

「愛ってなに?」「わたしって、なに?」を続けた結果、

多くのひとに応援されるようになった。

 

 

 

「無駄じゃなかった。」

 

感動。

 

 

 

「こころ」とは、というわけで、

ひとことでまとめると、

 

この世界を構成している(人間を含む)
目に見えない存在すべてを指す

というとめどなき徒然。

 

 

でもそう考えると、「こころ」は、エネルギーであり

すべてのものに宿っているその

エネルギーをある意味わたしは
「こころ」とみなしているから、

 

だから「草花」と「空に流れる雲」と「松永まい」の
境目というか「違い」がわからないのだろうと思う。

 

どれも「自然」の一部に過ぎない。

 

この場合の「自然」は 海とか山とかの「自然」ではなく

「宇宙」としての「本質」という意味が含まれている

nature

 

息子には、そういう感覚で同じように育ってほしいと願うため、
産まれたときから「Be gentle.」と言い続けて来た結果、

 

家の観葉植物にも
猫と同じように「ヨシヨシ」してくれるようになった。

 

 

 

 

 

そしてその、目に見えない存在たちに

ひとは昔、ラベルを貼った。

 

”愛”を、「愛」と呼ぶことにしたのだ。

”こころ”を、「こころ」と呼ぶことに、した。

 

 

 

それは革命だともちろんそう思う。

 

 

「ことば」はコミュニケーションとしてのツールであり、

その「伝える手段」を駆使して

わたしたちはこの人間界で生きている。

 

その「ことば」によってすれ違い、
分かり合い、

リフレクションを起こし続けている。

 

 

 

「ことば」など、人工物でそれ自体が陳腐なものだ。

 

しかし人はそこに、「美しさ」を見出し

この世界になくてはならない

「目に見える」大切な存在だと思っている。

 

 

それがあるからこそ、

「目に見えないこころ」について

 

語り合うことができる。

 

 

 

わたしは、

愛し合うことの次くらいに、

語り合うことが好きかもしれない。

 

 

ことばはなくなっても

自分は生きていけると思う。

 

こころは、なくならない。

わたしたちは、「存在」している。

 

そこに身体がなくなっても、

それは変わらない。

 

その「存在」こそが、「こころ」である。

 

 

だからわたしは、

その「こころ」について

「ことば」を超えた

「目に見えぬ存在」について

 

これからも

 

「ことば」を通して

伝えていくことを続けていきたいと思う。

 

 

 

 

1 Comment

  • 友美 Posted 03/25/2016 12:37

    以前、心ってMindとSpiritのどちらなんだろ?と思ってましたが。
    感情は身体感覚だし、Mind は思考だから、
    こころはBody とSpirit の話になるんですね。
    おもしろい!

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