それでも私を必要としてくださる方へ

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大晦日ですね。

 

松永まいには大晦日だろうがクリスマスだろうが、
そんなことは関係ない。

 

地球が終わるその日まで、

 

伝えたいことを伝え続ける。

 

寝不足だろうが、年をまたごうが、
わたしはわたしの「書きたい」衝動にその時従います。

 

 

眠い。

 

 

昨日の今頃、
わたしは、オエオエの絶頂のなか
人々に見捨てられる自分をリアルに想像しながら
もがき苦しんでいました。

 

 


 

 

 

 

 

 

私にとって、大人同士の複雑な本音と建前
日本の特有のお互いがへり下りあう文化は、

 

海外にいくずっと前から

わたしにとっては理解できない苦手なことのひとつでした。

 

英語を話すのが、自分にとってとても楽で
心地がいい理由のひとつに、尊敬・謙譲語が
ほとんど存在しないという言語のシンプルさと、

日本とは違う他人との距離感があります。
(関西はちょっと似ている、だから松永は大阪が楽で好き)

 

 

わたしの持っている感覚的をわかりやすく説明すると
たぶんこんな感じ。

ちいさな子供が
皇太子さまと掃除のおじさん二人を目の前にして、
二人の人間を区別せずに

「おじさんボールとって!」と言う。

 

母親に、

「皇太子さまには深々お辞儀をしなさい!」と怒られ
「丁寧なことばを使いなさい!」と怒られ、

 

言われた通りにそうする。

 

 

ちいさな子供は、

「なぜそうしなければいけないのか」

説明はもらえません。

 

なぜ、掃除のおじさんには深々お辞儀をしなくていいのか、

 

理由が理解できません。

 

 

その子供は、お辞儀のしかたも挨拶のしかたも知っているので
きちんと振る舞うことができますが、

 

でも、ボール遊びをするなら、
楽チンな掃除のおじさんとにする。

 

 

 

わたしは、大人としての最低限のマナーや言葉の使い方を
普通の人並みには学んできました。
秘書のような仕事をしていた経験もありますし、
20代の頃は、とにもかくにも「社会常識」「プロトコール」
「マナー」を頭に叩き込んだ時期でした。

鏡を見ながら食事をする練習をし、
どこにいっても恥ずかしくない身のこなしに言葉遣いを
身につけようと必死になったころ。

 

 

でも、つまらなかったです。

 

庶民は、気楽な庶民に戻りました。

 

 

 

海外に出たのち、
いわゆる「一流」と呼ばれるひとたちと接していくなかで、
彼らの中にそのガチガチに型にはまった「マナー」など、
ほとんど存在していないことを目の当たりにした私は、

ナイフとフォークの順番や、
表面的で形式的な振る舞いよりも、
彼らのもつもっと本質的な品格や深い愛情から
たくさんのことを学びました。

 

 

必死で英語を学び、
世界に通用する人間になるために努力した先には、
「言葉を超えたコミュニケーション」が
確かに存在していることを知りました。

 

 

 

世の中にはたくさんの価値観があり、
本当の意味での「人の敬い方」も、
人それぞれのこだわりがあります。

なにひとつ、正解はありません。

 

 

 

先日、目上の方に失礼な態度をとってしまい
イヤな気分にさせてしまったことを
わたしは真摯に反省し

心からお詫びしました。

 

 

ただ先ほど書いたように、
私は他人に対してそういった敬称や言葉遣いにおいての敬い方を
まったく求めていないので、自分がそれを求められると
わたしはわたしで自分を無理させたまま
コミュニケーションをとることになります。

 

わたしはそれを

これ以上続けることは自分が心地いい世界から

はずれてムリすることになる。

 

 

わたしの態度に怒った相手は、

「失礼を承知で書きますが、 まいさんはご自身を責めすぎです。

それには、本当にイライラします。

それはあまりにも繊細であることの裏返しなのだともお察ししますが。」

と言いました。

 

ひとつ補足すると、

「イライラする」のは先ほどと同じくその方の中にある感情

であり、

わたしの人となりとは無関係です。

 

今の所わたしは自分を省みることは徹底しますし、
その中で言語化される部分だけをみると
自分を責めているように見えるのかもしれません。

でも、

自分の内側を一心に見つめていく作業には

常に没頭しますが、
それと「自分を責める」とはまた異なるものです。

 

わたしは30年近くに渡り「自分を責め」続けて
「罪悪感」の中で生きてまいりましたので、

その感覚はよく知っていますし、

今自分がしていることが
全く別のものだという自覚があります。

 

 

わたしは今自分を責めている感覚はなく、
ただ失敗をしたときにそれを真摯に受け止め反省し、
今自分がいる場所を明るみに出していく。
そんな感じです。

 

わたしのやっていることは、
以前にも書いたとおり
とても地道に見えてとても回りくどいように見えるでしょうし、

人からイライラされることもよくあるのかもしれません。

 

 

でもこれは私の変えられないやり方であり、
質であり
だからこその今の自分でもあると思っています。

そしてそこに共感してくださる方に、
それでも松永まいから何か感じ取ってくださる

そんな方に私の近くに残っていただきたいのです。

 

 

その都度「ゼロ」にリセットすること、

指摘されたように確かに

アホのように見えるかもしれません。

不器用すぎるように見えるかもしれません。

イライラさせるかもしれません。

 

 

ひとは、ずっと学び続けます。

失敗を繰り返し、そして魂は磨かれていきます。

わたしは、

自分がニュートラルでい続けることに関しては

何度でも何度でもその都度歩みをとめて
そして、リセットし

自分を見つめ直す作業としてゼロに戻ります。

 

それは今回

影響力のある方たちの後ろ盾を外す
という形になっていますが、

それは時に目の見えないレベルで

時に物理的な環境を変えるレベルで

時にこうして人との関わりを整理するというかたちで

わたしは、

ゼロに戻ってくると思います。

 

 

わたしは、アホにみえるかもしれません。

 

でも、

そういう生き方しかできない。

その後

自分の至らなさや、勘違いをして
発言をしたことをたくさんオエオエ味わいました。

大好きだったひとに嫌われたくない一心で、
文字どおり泣きながら

「わたしのこと嫌いにならないでください」

と人に伝えたのは、

後にも先にも初めてのことでした。

 

わたしは、大好きなひとを嫌なきもちにさせた。

どんな形であれ、自分が誠心誠意こめて伝えようとしたけれど、

もしかすると

確かにわたしは気づいていないレベルで
自分を責めていたのかもしれません。

 

そして、やっぱりまだ、

「嫌われたくない」

と素直に悲しんでいるのかもしれません。

 

わたしは、これ以上

「ひとに嫌われる恐怖」と共に

自分のありのままを表現していくことは難しいと
判断した上での今回の決断です。

それはたまたま今回
ひとつのやりとりの中で浮かび上がってきた

私の中に根深く残る「感情」のパターンのひとつでした。

 

わたしは深く、感謝しています。

そして今までもこれからも、

敬愛しつづけると思います。

そして、今、ここまで書いて、

「わたしは相手に嫌われても」

「それでもその女性が好き」

という、

打算の一切ない純粋な「好き」が

戻ってきたのを感じます。

 

多くのかたが
わたしのブログから離れ、

人気がたおち閑古鳥アゲイン覚悟です。

 

 

それでも、

わたしの発信に、

松永まいという人間の声に、

 

耳を傾けてくださるかたが

のこってくれますように。

 

 

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